何にもとらわれない、瑞々しさ。
BONNIE PINKさんの美の秘訣
プロ願望ナシの女の子が、突如シンガーソングライターに
――BONNIE PINKさんは、小さい頃はどんな子供だったのでしょうか。
毎日、外を駆け回って遊んで、いっつもどこかにかさぶたをつくっているような子(笑)。だいたいデニムのショートパンツ姿で。すごく活発でしたが、一方でインドア系の習いごとも多くて、ピアノ教室にも通っていました。
――ピアノはいつ頃からでしょうか。
6歳くらいからかな。幼なじみが先に習い始めたのですが、その子の家に行ってはピアノを借りて、彼女の練習時間を奪ってまで『ねこふんじゃった』を永遠ループで弾いていました(笑)。帰宅してからも、音楽の教科書に付いていた“紙の鍵盤用紙”を広げて、畳の上でまた『ねこふんじゃった』を情感的に弾きまくるという。さすがに両親が「ピアノ習う?」と察してくれました。
――想像すると…かわいいですね。小さい頃は、どんな音楽を聞いていたのですか?
3歳年上の兄の影響もあって、小学校の頃から洋楽ばっかり聞いていました。ビートルズやプリンスは特に好きで、「英語で歌うこと」にも、すごく興味がありました。当時は『明星』という芸能誌の付録「ヤンソン」が愛読書。「ヤンソン」は、洋楽の歌詞がカタカナで振ってあるので、小学生の私には、ありがたいんですよ。「♪ライク ア ヴァージン〜♪」とか、元気よく歌っていました(笑)。
――「ヤンソン」ありましたね! BONNIE PINKさんは、大学生のときにデビューが決まったそうですが、ミュージシャンになりたいと思っていたのはいつ頃からなのでしょうか。
プロになりたいとは全然思っていなかったんです。大学の学園祭をきっかけに、人づてに噂が広まり、あれよあれよという間にデビューが決まって。
――それまで作詞作曲はご自身で?
作詞に関しては、10歳の頃からデビュー前まで日記代わりに、毎日“詩”を書くのが習慣でした。と言っても、人に見せるつもりももちろんなく、ひとりで黙々と。ただ、毎日書くことは、自分と向き合う作業でもあったので、割と早い時期に自分の意見とか感覚が、確立されていたかもしれません。
作曲の経験は、ゼロ。なので、当初は人の楽曲を歌う前提でデビューが決まったんです。アルバム制作が始まり、いろいろな人が書いた曲が10曲以上届いたのですが、どれを聴いても歌いたいという気持ちになれなくて…。そのことを正直に言ったら、事務所の人から「そこまで好き嫌いがはっきりしているなら、自分でつくってみたら?」と、それで「よくわからないけど、やってみます」ということで、始めました。
――どうでしたか?
実際やってみたら「あ、できるかも」というのが最初の感覚。自宅のカセットデッキで録音して、4曲くらいを事務所に送ったら「できるじゃん。これならできるよ、全曲つくってアルバムつくろう!」となり、ジャンルもカラーも統一されてない“幕の内弁当”のような8曲入りのアルバムができあがりました。
――学園祭から曲づくりまで、そんな早い展開で。
本当に。以来、作詞作曲しつづけて20年が経ちます。でも、このときのファーストアルバムだけは、何年経っても恥ずかしくて恥ずかしくてずっと聴けなかったんです。ライブでも未演奏のまま、“封印”していたのですが、20周年を迎える前に、このモヤモヤを解消したいと、最近やっとの思いで“解禁”しました。おかげさまで胸のつかえが取れました(笑)。
3か月のニューヨーク滞在が、2年に!
――デビューから3年後、勉強と休養を兼ねてニューヨークへ行かれますが、このときの心境を教えてください。
簡単に言うと「少し休んで考えたい」という気持ち。というのも、特にミュージシャンを目指していたわけではない人間が、ある日突然この世界に投げ込まれて、デビューして、と怒濤の日々の中で、「自分はどこまでBONNIE PINK然としていたらいいのか」、ステージ上の自分と普段の自分の距離感がわからなくなってしまったんです。
――京都で学生バンドをしていた女の子が突然、ですもんね。
いきなりメジャーデビューというのが、恵まれた環境だというのは理解していましたが、何の心構えもない状態で始まって、もともとがメジャー気質じゃないのか(笑)、注目されることにも、創作にも疲れて煮詰まってしまいました。「3か月間だけ」という約束をして、なかば逃亡者のようにニューヨークへ渡りました。
――3か月間のニューヨーク滞在は、どうでしたか?
あ、結局2年近くいたんです、とても気に入って。
――延びましたね(笑)。
はい。でも、このときのニューヨーク生活がなかったら、きっと今頃は引退しているんじゃないかな。アーティスト寿命が延びたと思いますし、すごく救われた大きな転機でした。
――疲労困憊状態から、回復されたんですね。
それは、もう。友人にも「こんなに明るかったっけ?」と言われるくらい。ニューヨークの他人を気にしない空気もすごくラクで、水を得た魚のように開放感でいっぱいでしたね。コミュニケーションの取り方も滞在前と後では大きく変わったんじゃないかな。
――どのように変化したのでしょうか。
私はずっと、自分の意見をズバンと言うのが苦手だったんです。音楽ひとつ取っても、学生時代はまわりの人と聴いているものがあまりにも違っていたし、かといって、それを説明するのも誰かと共有するのも「いいや」って諦めていて、自分の音楽観は自分だけで育てていく、という感じでした。でも、ニューヨークでは、自分はこういう人間でこれが好きで、とはっきり主張しない事には会話がスタートしない。今まで閉じていた扉が、一気にバーンと開いた、というか、こじ開けられた、のかな。帰国してからは、何でもはっきり言い過ぎるので、逆に苦労したくらいです(笑)。
――滞在中の出来事といえば、何を思い出しますか。
毎日がハプニングだらけで挙げればキリがないのですが、ささいな日常の風景をよく覚えていますね。たとえば、郵便局で働いている黒人のおばちゃんの言いまわしや身振り手振りのリズム感が、聞いているうちにだんだんとラップに聞こえてきて、「この街はミュージシャンだらけだな」と感じたこととか。何度もぼったくりにもあって、人を疑うことも覚えました(笑)。
2年間の間にだまされたり、失敗したり、シブい思いもたくさんしましたが、反面で猛烈に楽しい気分も味わえた。ニューヨークは美しいものと醜いもの、その両方が振り切った形で同居している街。私みたいに「両方見たい!」という欲張りな人はハマると思いますね。あとは、赤毛でいることもやめて、よりナチュラルになったことも大きかったかな。滞在中につくった4枚目のアルバムは、12枚のアルバム中1、2位を争うくらい“素の自分”が出ています。
――アルバム『Let go』ですね。
私は、曲をストックせず、そのときそのときでつくったものをひとつ残らず出すので、より当時の自分の空気感が出やすいかもしれません。聴き返すと「このアルバムは、こういうモードだったんだ」と、自分の状態がわかります。4枚目は音も極力削ぎ落として、シンプルにつくりましたし、休養もたっぷり取ったあとで声の伸びもいい。
今でもあのアルバムは自分の“原点”だと思う。ニューヨークに行く直前につくった3枚目のアルバムは、まぁ暗くてね(笑)、「この子大丈夫?」という感じ。だから駄目というわけではなくて、そのコントラストがおもしろいですよ。
「壊して、またつくって」を繰り返し、アルバム12枚が完成
――楽曲制作についても教えてください。曲が生まれやすい時や場所などはありますか。
基本的には家でつくるのですが、メロディの断片的なものは、電車や車に乗っていたり、歩いていたり、“体が揺れているとき”にフワッと浮かぶ事が多いですね。もしかしたら“景色が流れている”ことも関係あるのかもしれません。
――おもしろいですね。
私は、メロディと詩のどちらかが先にできることはなくて、同時に両方をつくりながら、1曲を完成させます。最初は、ギターでコードを押さえながら「ラララ」とか「ハハハン」と始めるのですが、だんだんと「このコード感に合う風景は、どんなだろう」と映像をイメージしていくことで、言葉やメロディが導き出されていきます。音と言葉と映像がセットなので、電車のなかや散歩中など、目に映る景色が刻々と変わっていくことが、何か創作のスイッチを押すのかもしれませんね。
――作詞のときに大事にされていることは何ですか。
日本語でも英語でも、その単語自体の言葉のアクセントを守ったまま、メロディに乗せたいと思っています。あとは、曲のグルーヴが止まらないように言葉のリズム感を大事にすることですね。アッパーな曲は特に。バラードのように、言葉を置きにいくときは別ですが。
――デビューから20年の間で詩のあり方や言葉の選び方は変化しましたか?
最初の頃はね、「ものごとは必ず破壊に向かう」というような、デカダンス的な発想というか、破滅の美みたいなことばっかり考えていました(笑)。私の場合、詩の内容は8割型妄想なのですが、シンガーソングライターだから全部経験しているんだと思われることも、嫌で嫌で。わざとひねった表現をして、ストレートな言い方を避けていましたね。なんでかな、とても恥ずかしかったんですよ。その頃は、詩のほとんどを「君」と「僕」で書いていましたし、そういうジェンダレスな書き方が好きだったし、ラクでした。
リハビリを経て、今の歌声に
――それが、だんだんと変化していくのですか?
デビュー当時に助言を頂いていたプロデューサーさんからある日、「『君』と『僕』じゃなくて、『私』と『あなた』で書いてみたら」と言われたときは、世界がひっくり返るくらい動揺しました(笑)。「私」と「あなた」で書く世界観って、ぐっと女っぽくなるじゃないですか。当時の私には、大問題だったんですよ。それがこの20年で抵抗なく書けるようになってきたのは、きっと年齢とともに少しずつ、自分の女性性のようなものを受け入れられるようになったんでしょうね。
――逆に変わらない部分は、どんなところですか?
そうですね…。実は10年くらい前に、声が出せなくなった時期があって、「けいれん性発声障害」という診断でした。歌おうとすると、勝手に喉が震えてしまって、声が落ち着かないというか、まったくコントロールできない状態になって以前のように歌うことができなくなったんです。そんな時期が半年から1年近く続きまして。
――知りませんでした。
リハビリをしながら、少しずつ声が戻ってくるのを待って、不自由なく歌える今の状態になるまで何年もかかりました。この経験はものすごく大きかったですね。途中さすがに「もう駄目かも」と、ひとり悶々とする時間もありましたが、最終的に、昔とは違う、今の自分の歌を獲得できた。諦めないでいれば、いや、最悪生きてさえいれば、新しい風がフワッと吹いてくるときがくる、力が沸いてくるときがくる、というのは、強く実感としてもつことができたので、そういう歌詞は、よく出てきますね。
――今ふと『Last Kiss』のなかの「苦い実かじっても くじけちゃだめよ walk straight」という歌詞が浮かびました。
言葉を変えて何度も書いています。あとは最近、今までの私だったら絶対に使わなかったであろう言葉を使った詩も書きましたね。
――使わなかった言葉。どんな言葉ですか?
『お姫様抱っこ かっこいい』(笑)。
――!!
ディレクターにも「え、なになにどうしたの?!」って驚かれました。私は歌ってて、楽しかったですよ。「これはナシ」と自分で制限をつけると、使える言葉も世界観もどんどん狭くなってしまうので、“ナシをアリに”する作業は、意識的にしています。
前作を超えて、まだまだできることがある
――そういうチャレンジは、これまでの世界観が壊れてしま怖さはないですか。
全然。毎回新しいアルバムは、前のアルバムの全否定から始まるくらいですし、この20年間は、壊してまたつくって、の繰り返しでしたから。逆に「前作が最高だった」と思い続けているなら、それは「よくやった」と、引退するときだと思います。
「まだまだできることあるかも」って思いがあるから、次に行けるんだと思います。ここ数年制作をお休みしていましたが、先日新曲も発表し、今ようやく、次回作に向けて、動き出しています。
――楽しみです。ファッションについても教えてください。いつもはどんなスタイルが多いですか。
今日着ているのも私服ですが、普段からスカートよりはパンツが多いですね。とはいえ、新しい服をたくさん買うというよりは、今までと違うコーディネートで、手持ちの服を違う雰囲気で着ることを楽しんでいます。小物や帽子、髪型を変えるだけで、印象は変わりますから。似合う、似合わないは、人に委ねないで自分が好きで着たい、自分が似合うと思えば似合う、という風にファッションを楽しみたいと思っています。
――できれば、その美肌の秘訣も教えてください。
そんなことはないですが、強いて挙げればメイクをしないことですかね。休日はまったくしませんし、写真を撮るような仕事でない限り、オンの日もコンシーラーと眉毛を描くだけ。メイクをしない日なんて、洗顔もしません(笑)。いや、スチーマーとかに凝って、毎日頑張ってた時期もあるっちゃあるんですよ。でも飽きました(笑)。
あとは、料理が好きなので20歳くらいから極力外食はせずに、自炊をしていることが、肌にいいのかもしれません。実家から京野菜を送ってもらったり、今はプランターで野菜を育てたりもしています。
――20歳からほぼ自炊ですか…内側からの美だったんですね。
そう言うと、すごく健康に気を遣ってそうに聞こえますが、無類のコーヒー好きであることも言っておきますね(笑)。カフェインが切れたときの私は、電源を切られたかのごとく、動かなくなります。
――少し安心しました。最後に、今後やってみたいこと、挑戦したいことはありますか?
それね、よく聞かれるのですが…パッと浮かばないんですよ。今の今で言うと、ゴルフの上達ですかね。最近始めたばかりなので、まだ楽しい域まで達していませんが、ずっとできる趣味になればいいな、と。ゴルフも野菜づくりもそうですが、常々、音楽以外のことにも目を向けるように心がけています。いろいろなものにハマって、日々を楽しむ、そのなかに自然な形で音楽もあればいいな、と思っています。
最後にBONNIE PINKさんから
“美しくなるためのメッセージ”
「20代は、風のように過ぎ去るから、毎日を噛みしめて生活しなさい」と、20歳の誕生日に父から言われた言葉。以来ずっと、大切にしています。落ち込む日があっても、何もしないでぼーっとする日があってもいいけれど、どの日も全力投球で。「思い出せない日が1日もないように生きたい」と、思っています。