パワフルに、しなやかに、躍動する体。
仲宗根梨乃さんの美の秘訣
マイケル・ジャクソンから、ダンス人生が始まった
――仲宗根さんは、いつからダンサーを目指していたのですか。
特に何歳のときから、ということはないです。物心が付いたときには、自分はエンターテインメントの世界で生きていく、と決めていました。一度決めてからはほかの道に迷うこともなく、エンターティナーになること以外は考えられませんでした。
――小さなころから今までひと筋に?
はい。特に小5のときにマイケル・ジャクソン主演の映画「ムーンウォーカー」を見てからは、マイケルに夢中。完全な虜になってしまって、彼のダンスを真似していたのが、私のアメリカへの憧れの始まりです。マイケルみたいになりたい、いつか彼を生で見たいと夢見ながら…。
――その日はやってきたのですか?
中学2年のときに! 沖縄に住んでいたのですが、「福岡ドームに来る」という情報を得て、母に必死で頼み込んで連れて行ってもらいました。
――どうでしたか?
人生が変わりました! マイケルがステージに登場して、踊り出した瞬間、心臓が福岡ドームを2周するくらいの、目まいを覚えるような興奮! 並外れた歌とダンスの才能、エンターテインメントに注ぐ魂を生で感じて、あまりの輝きに身動きが取れなくなるくらい、引きつけられました。「いつか東京に出て、エンターティナーになりたい」と考えていたのが、この日を境に東京を飛び越えて「アメリカに行こう。マイケルのいるL.A.に!」と具体的な目標も定まって。
――20年以上経つのに、まるで今見てきた、みたいな熱を感じます。
あのコンサートで何かのスイッチがカチッと入った、撃ち抜かれた、という感じです。
沖縄でのひとり練習から一変、刺激的なL.A.でのレッスン
――実際に19歳でL.A.へ行かれますね。それまでは、ダンスはどのように学んでいたのですか?
ダンススクールで先生に教えてもらったわけでもなく、我流ですね。マイケルはもちろん、ジャネット・ジャクソンやTLCのビデオを毎日すり切れるほど見て、自分の部屋で真似をしては、確認して、を繰り返して覚えていきました。鏡もなかったので、窓に反射する自分の姿を見ながら、ひたすら。
そして、高校を卒業して1年後、L.A.への留学が叶いました。短大に通いながら、授業が終わったらダンスクラスに通って、終わってからもダンスの練習。楽しくて仕方なかったです。
――ひとりで練習していたときとは、違いましたか?
ダンサーのレベルも高く、それが刺激になって、ひとりでやっていたときとは比べ物にならないくらいの速度で上達しました。オーディションもこの頃から受け始めましたが、会場に行くと、沖縄でひとり練習しているときに、お手本にしていたビデオのなかのダンサーがいるんですよ! 「どこでダンスの勉強をしたの?」「あの仕事をしたときはどうだった?」と、質問攻めにしていました。
――アメリカでいちばん苦労したことは何でしょうか。
ビザです(笑)。
――ダンスのことよりも、ビザだったのですね(笑)。
大学卒業後、ようやくオーディションに受かって、プラクティカルビザを取ったのですが、期限は1年間。ビザが切れるギリギリのときに、ジャネット・ジャクソンのオーディションがあることを知ったんです。
私は「ジャネットと踊れるチャンスかもしれないのに、今帰るなんて絶対にいや! 捕まってでも、このオーディションだけは受けたい!」と思って。…受けました(笑)。
コーヒーショップで、“奇跡”に遭遇
――オーディションはどうでしたか?
目の前にジャネット本人が座っていました。これまでにないくらい緊張して、頭のなかが真っ白、体も石のように固くなって動けず、見せ場のターンのときには、ポツンと立ちすくんでしまったのです。終わったときは絶望感しかありませんでした。「どうしても手にしたかった、最大のチャンスだったのに。終わったな私」と、くやしいやら悲しいやらで気持ちもぐちゃぐちゃ。でも、そんなときに審査員の振り付け師の方から、信じられない発言があったのです。「最後に、全員でもう一回踊ってもらいます」
――うわ、すごい!
その言葉を最後まで聞き終わらないうちに、バーッと駆け出して、審査員の前、最前列に飛び出して、いちばん見てもらえる場所を陣取りました。そこからは無我夢中。今度は、失敗したときとは打って変わって、自分のイメージしている通りのダンスができました。
手応えは感じたものの、結果発表までに時間がかかって、しばらく待たなくてはなりませんでした。その間にビザの猶予はいよいよなくなり、弁護士からは、「このまま待つのは危険だ。オーディションの結果は、日本に帰って待ったほうがいい」と…。
――一度帰国することを決めたんですね。
はい。帰国の数日前、いつも通りコーヒーを飲みに出かけたのですが、普段は「スターバックス」に行くところ、その日は理由もなく、いつもとは違うコーヒーショップに行ったんですね。今思えば、この何気ない選択が運命の分かれ道でした。
お店に入ったらびっくり! 審査員のジャネットの振り付け師が、お茶してたんですよ! 駆け寄って「ジャネットのオーディションの結果を待っているけれど、ビザの関係でもう日本に帰らなくてはいけない」と相談しました。すると、「日本に帰らなくていいよ。あなたは受かってるから」って、その場で結果が聞けたんです!
――すごいですね!
たまたま入ったいつもと違うお店で、いちばん会いたい人に会えて、最高の結果を聞けて、帰国しなくて大丈夫になって…。ミラクルが起きたと思いました。すぐにジャネットのチームがビザの手続きをしてくれて、無事3年間のビザがおりました。私のアイドル、ジャネット・ジャクソンにダンサー生命を救ってもらえるなんて、こんな幸せなことがあるのかと、神様に感謝です。
――ジャネットとのステージはどうでしたか?
それが…実はこのときのステージには、結局私は参加できなかったのです。
――えぇ?!
受かったオーディションは、スーパーボウルのライブで、1日限りのステージだったのですが、同じ時期にブリトニー・スピアーズのワールドツアーのダンサーとして、オファーがあって。私は「絶対にジャネットと踊る!」と決めていたのですが、ジャネット側が「ワールドツアーに参加できることは、ダンサーにとってすごくいい経験になる。ダンサーとして成長してきなさい」と言ってくださって。それでワールドツアーに参加して、実際すごく勉強になりました。
自分のダンスのフレーバー、その出し方
――どんなところが勉強になったのですか。
このツアーで“女性”ダンサーとして徹底的にしごかれました。私は小学生のころから“ごぼう”というあだ名で呼ばれるくらい(笑)、細くて、少年のような体型でしたし、女性らしさとはほど遠いところで生きていて、ダンスでも女らしさをアピールするような踊りは、苦手だったんです。
ところがブリトニーのツアーでは、ランジェリー姿のような衣装で、ヒールを履いて、という苦手分野のオンパレード、さらにものすごいスピードで動かなくてはならないという、高い技術も要求されました。今までのダンススタイルでは通用しないし、最初は戸惑いましたが、表現の視野は大きく広がりましたね。
この経験は、のちの少女時代の振り付けや今のダンススタイルにもつながっています。ツアーでは、全米、ヨーロッパ中を巡りましたが、毎晩ツアーバスのなかで寝て、朝起きたら次の会場に到着している生活、一流ダンサーと過ごす毎日も刺激的でした。
――大勢のダンサーと一緒にステージに立ち、そのなかで埋もれないようにするために、何か心がけていたことはありますか。
個性と協調性のバランスの取り方ですね。一見、当たり前に聞こえるかもしれませんが、とても大切なこと。海外のダンサーはそこが本当に上手。ひとりひとりの個性が強すぎると、一緒に踊ったときにバラバラに見えてかっこ悪いですし、逆に全員同じダンスで個性がなくても躍動感がなくてつまらない。個性はあるのに、一緒に踊るとビシッと揃って見える、自分のフレーバーの出しどころを心得ているのだと思います。
ダンスを揃えることに関しては、ジャネット・ジャクソンは厳しかったですね。リハーサルの凄まじさは以前から噂には聞いていましたが、実際に数年後、ジャネットの振り付け師の補助をして、目の当たりにしました。1曲に対して、ダンサーふたりがペアになって、ぴったり同じ動きになるまで何度も踊り続けさせます。しかも、ほかのダンサー全員が見ている前で。
――本番とはまた違う緊張感がありそうですね。
相方の動きを感じながら踊ること、ほかのダンサーをよく観察することで細部の振りまでチェックできるのも勉強になります。この練習のあとは、全体のレベルが格段にあがるんですよ。
ジャネットからの言葉「You are a good dancer」を胸に
――仲宗根さんのダンサーとしてのキャリアを支えている言葉はありますか?
これまで、ダンスをほかの人に褒められても、あまり真に受けることはなかったですし、もちろん自分で上手いと思うこともありませんでした。ですが、ジャネット・ジャクソン本人から面と向かって「You are a good dancer」と言われたときは、こんなに大好きな、憧れの人から言ってもらったのだから、疑うでも謙遜するでもなく、「この言葉を信じよう」と思いました。ずっと大切にしている言葉です。
――今は、振り付け師としても活動していますね。これまで少女時代や東方神起、SHINee、ブリトニー・スピアーズなどの曲を手がけていますが、1曲の振り付けはどのように完成していくのですか。
やり方はここ数年で変わってきましたし、こう! という決まりはありません。でもあえて言うと、まずは曲を何回か聴き、音楽を感じて、曲のコンセプトやイメージ、細かな音の配置を入れ、振り付けを作っていきます。大変なのは、フォーメーションづくり。グループであっても、ひとりひとりが輝くためには、どう動くのがベストだろうと考えます。この作業が本当に大変で、毎回白髪が増えそうですよ。フォーメーションができたら、あとは……あまり考えません(笑)。
――少女時代の振り付けなど、ボディラインの美しさが際立つ振り付けだと思うのですが、そこもあまり狙っていないのですか?
はい、狙わないようにしています。私、狙うと必ずハズすので! ダーツでも、あまり考えないで投げるとストライクばっかりなのに、構えて考えて狙うと、とことんハズしますから。なので、フォーメーションができたら、フレーズごとにセクシーさ、かっこよさ、キュートさなど、何を際立たせれば、楽曲がより素敵に聞こえるかを感覚的につかんで、音楽を感じながら、体が動くに任せてつくっていきます。
――今まで手がけた振り付けのなかで、これがマイベストだと思うのはどの曲ですか?
難しい質問ですね。どの曲も見れば見ただけ、気になることが出てくるので、これはパーフェクトだと思うのはほとんどないのですが…。まぁでも、強いて言えば、少女時代の「MR.Taxi」かな。あの曲は、ライブで見ても「上手にできたな」と思いますね。
根っからの“TOMBOY”が、30代で大転身
――普段は、どんなファッションが多いですか?
肌に直接触れるものは、シルクやコットンなど、着ていて心地のいいものが好き。今はL.A.と東京の往復生活をしていますが、日本に来ると男性も女性もおしゃれな人が多いなと感心します。日本人はリハーサルをするにも、きちんとした格好でスタジオに入って、リハ着にわざわざ着替えたりするでしょ。びっくりですよ(笑)。メイクもそのまま舞台に上がれる、っていうくらいバッチリだったりして、尊敬します。
――体調の管理や体のメンテナンス、エクササイズはしていますか?
今、ここに来る前にもホットヨガをしてきました。あとは整体や鍼にはコンスタントに通っています。最近になってようやくストレッチもやるようになりました。
――最近ですか?
そう(笑)。バレエやジャズダンスを習っていなかったので、ストレッチの大切さがわからなかったんですよ。大事ですね、ストレッチ。30代になって痛感しています。今までダンスを辞めたいと思ったことなんて一度もなかったのに、疲れが抜けなくて、自分の思うような表現を体ができなかったとき、初めてリタイアしようかと思いました。でも、結局ステージに立ってライトを浴びてしまうと、「絶対やめられない」と思うので、だったら、続けられるようにきちんとケアしよう、と。ストレッチもまじめに行うようになりました。
――30代になってほかに変化したことはありますか?
10代20代は、とにかく自分のことで精一杯で、まわりも見えていませんでした。女性らしさのかけらもなく、むしろ女っぽい格好や雰囲気は苦手でしたが、30代になって、自然に変わりましたね。女性であるってことをうれしいと思いますし、女に生まれてよかった、って思います。
お料理も習い始めたんですよ。オーガニック食材を使った沖縄料理の教室。トムボーイだった自分が、こんなに変化するなんて思いませんでしたが、これもまた楽しい。バリバリ働きながら、子育てもしている女性に憧れるので、私もいつか母親になれたらとも思います。
最後に仲宗根梨乃さんから
“美しくなるためのメッセージ”
知り合いも誰もいない海外生活で、「自分だけは、自分のことを信じる」という強い土台がなければ、世界で活躍するエンターティナーになる夢は叶わなかったと思います。最近出演したミュージカル、「ウィズーオズの魔法使いー」では、歌に挑戦したことも大きな刺激になり、今後は、ダンス以外にも表現を広げていきたい、という目標も生まれました。何かを始めるのに遅いことはありません。自分を信じる気持ちがあれば。