美人白書

Vol.38 田邊優貴子


Dec 22nd, 2015

photo_nahoko morimoto
text_noriko oba

南極の湖底に広がる、あまりに神秘的な、知られざる生態系の研究で、世界から注目を集める田邊優貴子さん。なぜ極地に魅せられるのか、最初に降り立ったときの鳥肌体験、そして極地と東京の往復生活で生じる苦労とは…。6度目の南極行きを2日後に控えたある日、研究室へお邪魔しました。

地球の果てで命を見つめる研究者。
田邊優貴子さんの美の秘訣

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「ここだけが世界じゃない」。時間が、空間が、広がっていく。

――田邊さんは、北極や南極の生物について研究していますが、最初に“極地”に惹かれた記憶をさかのぼると、小学生のころだそうですね。

そうなんです。小学3年生のとき、家に帰って何気なくテレビを見たら、極北の映像が流れていました。オーロラの色、氷河が落ちる音、ハクトウワシの舞う姿、見たことのない色や風景に「こんな世界が本当にあるの!」と、衝撃を受けたんです。

――今でも鮮明に覚えているんですね。

はい。景色もそうですけれど、あのときに感じた感覚をよく覚えています。自分が生きている世界とまったく違う世界が“同じ時間”のなかに存在しているんだ、と思ったときの何とも言えない感じ、時間と空間が一気に広がっていくというか。自分のまわりだけが“世界”だと信じて疑わない心を、ぐいっと広げられて、どうしようもなく心をつかまれてしまったのです。

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――その何十年か後には、そんな極地が田邊さんの研究フィールドになっていきます。

今でもいろいろな人に「なんでそんなに極地にばっかり行くの?」と聞かれますが、その理由の正確なところは、自分でもよくわからないんです。昔から雪をいただいた山や凍った湖のような冬景色を見ると、自然と胸が高鳴りましたし、空気が冷たい方が“生きやすい”といいますか。

――寒さが苦じゃないんですね。

寒いほうが空気の透明感が増す感じがして心地いいんですよ。逆に暑い季節は苦手で、湿度を含んで空気が重たいときは、体ごと沈んでいく感じがして元気が出ません(笑)。

昔、友人に言われて妙に納得したのですが、「アフリカで人類の祖先が誕生して、世界中へ伝播するときに、集団によってはその場所へ留まったり、南へ行ったり、はたまた北を目指したりしたよね。あなたは、北へ北へと移動した集団の末裔なんじゃない?」と(笑)。

――これ以上行けない場所が極地ですもんね。

元来の旅好き、さらに、つい寒い場所を求めてしまう習性が重なった結果、ついに北極と南極に行ってしまったんですかね(笑)。

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これで最後と決めた旅が、新たな道の始まりに。

――現在、極地で生きる植物の生態学的な研究をされていますが、田邊さんは昔から生物が好きだったのですか?

いえ、高校では理系クラスでしたが、高校の生物はおもしろくなくって、物理と化学を取っていました。将来、生態学の方向に進みたいと思ったのは、学生時代に行ったアラスカへの旅がきっかけです。

――やっぱりキーワードは“旅”なんですね。学生時代はバックパッカーとして世界中を旅していたのだとか?

はい。さまざまな場所を巡っていましたが、大学4年生になる前、進路を決める直前に、「小学校のときに見たあの映像をまだ直に見ていない」「アラスカに行きたい」という思いが強く沸いて、1年間休学してアラスカへ行くことを決めたんです。

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――休学までして決行したんですね。

「もうこの旅で最後にしよう」と自分に言い聞かせて。夏から秋にかけてキャンプをしながら滞在していたのですが、アラスカは温かい時期がすごく短いので、そこを過ぎると気温が急激に下がります。と同時に植物の色がぐんぐん変わっていくんですよ。毎朝テントから顔を出して外を見ると、昨日まで一面緑だった景色が、今日は目に映る植物がすべて黄色に。翌日は、真っ赤な世界が広がっていて、というように、たった1日で“昨日とは世界の色が違う”という魔法のような驚きを味わいました。

1年の大半は寒く、ひたすら耐え忍んで生きる植物たちが、短い夏の間に命を燃やす、その強烈なきらめきの瞬間に触れた気がしたんです。それで、こういう場所に息づく生物を研究したいと思い、26歳のときに「国立極地研究所」の大学院に入りました。

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南極大陸の沿岸から120kmほど内陸にある、アンターセー湖の湖底調査に出発!

まるで小宇宙! 南極の湖底に広がる神秘。

――田邊さんが現在研究していることは、どんなことなのでしょうか?

南極の、特に湖のなかの植物の生態系をメインに研究をしています。

――南極には湖があるのですね。

はい。およそ2万年前に地球の最後の氷河期が終わり、大陸を覆っていた氷は地面を削りながら、縮小して後退していきました。

――氷が地面を削りながら?

南極を歩いていると、氷河に地面を削った跡が見えるんですよ。まるで地球の傷跡のように生々しく。その、氷河が削ったくぼみに溶け水が入りできたのが“湖”です。2万年前、湖が誕生したばかりのときには、もちろん生物はいないのですが、長い時間の間に少しずつ外から入り、南極という過酷な環境のなかで進化していくわけです。

しかも、これらの湖はそれぞれが異なる生態系をもっていることもわかりました。たとえごく近くに隣り合った湖であっても、生態系はまったく違うんですよ。

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湖氷がめくれ上がり、まるで氷の彫刻のよう。

――どうしてそんなことが起こるのですか?

不思議ですよね。同じ時期に同じ地球環境のもとでできたのに。これは湖のサイズや深さ、湖のできる地形などで湖内の温度や水質が変わることにも関係があります。

――田邊さんの写真を見ると、こんな光景が湖の中に?!と思うほど、神秘的な世界です。

まるで尖塔状の遺跡が無数に林立し、全体が苔むしているような、ミニチュアのツンドラが広がっているかのような世界。数万年かけてできあがった神秘の光景に、最初に見たときは気が遠のきました。

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「コケボウズ」と呼ばれる円錐状の植物が林立し、神秘的な世界が広がる。

――田邊さんは、ここの湖底の光景を世界で初めて見た人に。

私は、湖ひとつひとつを惑星のような、小宇宙だと考えていて、無生物状態から今にいたる“進化の実験試験管”のような湖の生態系が、いったいどのようにできあがって、どう進化しているのかを研究しています。明後日からも(11月2日〜)南極に行きますが、その主な目的は昨年湖のなかに設置した機械を回収すること。そのデータを見ながら、1年間水中がどのような様子だったかを詳しく調べるのです。

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南極に初上陸。静寂と透明な空。

――最初に南極に降り立ったときのことを覚えていますか?

南極大陸に近づくにつれて、少しずつ氷が浮かんできて、そのうち完全に海を氷が覆う世界に。視界は360度見渡す限り真っ白になり、そこをさらに進んでいくと、時折黒い点々がちょこちょこ動いているのが見えてくるんですね。よく見るとそのごま塩みたいな点々は、大勢のペンギンが海氷を歩いている姿で…。

水族館以外の場所で彼らの姿を見ると、まるで「おとぎ話の国」に来てしまったかのような、現実からすごく遠い場所にいる気がしました。またしばらく進んでいくと、突如茶色い地面が現れて、今度は「うわー!大陸だ!」と大興奮。大陸って本当に地面なんだと当たり前のことにしみじみ感じ入りました。そして、大陸に降り立ち、ヘリコプターが去ったあとの圧倒的な静寂。

――何の音も聞こえないのですか?

どんなに耳を澄ましても何も聞こえません。聞こえるのは自分の鼓動と耳鳴りだけ。空中には東京の約1万分の1しかチリがないので、吐く息も透明、空や地面の色も驚くほど鮮やかなんです。

――空の色も東京とは全然違うんでしょうね。

信じられないくらい透き通っています。これは少し寂しく思うのですが、南極からオーストラリアに戻るとき、はっきりと空が黄色く濁っていくのがわかります。最初は黄色く、そこに少しずつグレーも混じってきて…。

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――「極地研究所」に入って、この10年で、南極と北極へ5回ずつ行っていますが、極地の環境は10年で何か変わりましたか?

年ごとの環境変動はすごく激しいです。海氷の厚さが2,3mの年もあれば雪と合わせて10mの年もあったり、ペンギンの営巣地に行っても、年によって状況は全然ちがいます。雛の死体だけが転がっていて親ペンギンの姿もなく繁殖に失敗した年もあれば、翌年にはワイワイとたくさん育っていたり。毎年のブレの大きさに何か傾向があるかどうかも見極めなくてはいけない点です。

――南極や北極で調査をする際には、何か月もの間メールや携帯電話が通じない生活だそうですが、その辺は平気ですか?

最初の数日間だけ「あの件大丈夫かな」と、東京のことやメールの返信が気になりますが、その一線を超えると、全然平気ですよ。雑多なことに時間や頭を使わなくていいので、生活サイクルはもちろん、自然に対しても自分に対してもシンプルに向き合えて、調査に没頭できます。

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――基地に泊まらず外でテント生活をすることもあるのだそうですね。

内陸での調査時は夏でもテント内の気温はマイナス12度くらいですが、その寒さは寝るときにこたえます。特に鼻の穴近辺は、呼吸をするために外に出しているので、さすがに寒い気候が好きだとはいえ、つらいですね(笑)。

――それは…。1日だって耐えられそうにありません。

あとは、あまりキレイな話じゃないのですが、私たちは排泄物など一切を極地に置いて帰れないので、各人容器に入れ、それを屋外に設置したドラム缶に捨てにいくのですが、風が強くてテントから出られない日が続くと、容器の残りの量を見ながら、どうしよう…あと少ししかスペースがないのに…と冷や汗が出ることは、あります(笑)。

――うわー、聞くだけで体が縮こまりますね。ちなみに極地に必ずもっていくリラックスグッズは何ですか?

「めぐりズム 蒸気でホットアイマスク」! あれは最高です。

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東京着。あれ、人混みってどうやってよけるんだっけ?

――南極での滞在のあと、東京に帰ってくるとどんなことを思いますか?

感覚が戻らず、いろいろなことを困難に感じます。たとえば、人混み。全然よけられないんですよ。右に左に交わしながら、まっすぐ進むってすごいと思います。特に横断歩道は人がブワーっと押し寄せてくるようで緊張しますね。よけられずあたふたしていると、はじかれてだいたい端の壁に「ドン」とぶつかって終了。2週間くらいすると慣れますけどね。

――最初の2週間が大変なんですね。ほかにもありますか?

極地では動物を見ると、寝転んで観察したり、写真を撮ったりが当たり前なので、東京に帰ってきてからもしばらくそのクセが抜けず…。道ばたで猫を見たときに、自分もゴロンと寝転がって触れていると、通りすがりの人にものすごく驚いた顔で見られて、ハッとしたり。向こうではお金も電話も使わない生活なので、東京でもお財布携帯を持たずに出かけるのは、帰国後毎回常習です。

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――時間や生活の感覚があまりに違うんですね。やはり東京の生活はめまぐるしいなと思いますか?

思いますね。東京に帰ってくると、次々にいろいろな事があって、何から手をつけていいかわからなくなってしまいます。どんなに頑張ろうと思っても、しばらくはボーっとしてしまってメールひとつもすぐには返せない状態。だんだん慣れて、あっという間にあくせくしていますが。

――リラックスできる場所は、東京にありますか?

家の屋上でボーっとしたり、夫と井の頭公園に鳥を見に行ったり、飲み歩いたり(笑)。東京は東京のおもしろさを楽しんでいます。

――ちなみに、今回の出発前には旦那さんから何か言われましたか?

彼は動物の研究をしているのですが、1か月前からクジラの調査のためにタイに行っていて、今は日本にいないんです。私が南極に行っている間に帰国するので、今回は先に私が見送りました。「また年末に会おうね」と言って。

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――帰ってきたらお互い話が尽きなそうですね。ファッションについても教えてください。写真で見るアウトドアスタイルのイメージが強くて、今日お会いしたら全然違う雰囲気なので、驚きました。

極地では着の身着のままですからね。それでも自分なりにこだわって、きれいなピンクや鮮やかなブルーなど、気持ちがアガるような色やデザインのものを選んでいます。

普段のファッションは、プラっと歩いているときなどにひと目惚れして買うことが多いですね。最近購入したのは、この靴です。スペインの革ブランドのものなのですが、長く愛用できそうな素材のよさと、アクセントのタッセルが気に入りました。帽子も好きでほぼ毎日のように被っています。頭に何かくっついていないとさびしくって(笑)、いつの間にか集まりました。

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――腕時計も素敵ですね。

これは、フィンランドの“SUUNTO”という精密機器をつくっているメーカーのもので、温度計、気圧、高度、コンパス付きなんです。極地でも東京でも使っています。

――最後に、田邊さんが仕事において「大切にしていること」を教えてください。

そうですね、仕事だけでなく生きるうえでも、大切だと思うのは、大らかさと思いやり。大らかさの中には、忍耐力も、人を受け入れる要素も含まれながら、何とでもなるよっていう気楽さもある。研究も生きることも、ひとりで完結するものではなく、人とつながって続けられるものですから。このふたつさえあれば、どんな場面も乗り切れるんじゃないかと思うんです。

――取材の間、ずっと心地いい空気に包まれている気がしたのですが、その秘密がわかった気がします。南極、お気をつけて行ってきてください。

はい、行ってきます!


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最後に田邊優貴子さんから
“美しくなるためのメッセージ”

親の姿を見ていて、いつの頃からか、私も大らかに思いやりをもって人と関わりたいと思うように。大学時代に、京都から青森までキャンプをしながら自転車で帰ると電話したときも、休学をしてアラスカ行きを決めたときも、南極へ調査に行くことを報告したときも、「危険だからやめなさい」と反対をされたことは一度もありません。黙って見守ってくれる父の姿や、脊髄小脳変性症という難病を患っている母の「いいな、私もそういうことしたかったな」という言葉。大らかとは、こういうことなんだろうと、自分の生きる指針にしています。

今月の美人
田邊優貴子

植物生理生態学者。国立極地研究所・助教。バックパッカーとして世界を旅したが、大学4年の時、真冬のアラスカ・ブルックス山脈麓のエスキモーの村で過ごし、人間が暮らしているのと同じ地球上とは思えない圧倒的な自然と、そこに暮らす生き物の姿に魅せられ、極地をフィールドにした研究者となる。南極や北極をたびたび訪れ、その生態系を研究しながら、地球やそこに息づく生命の不思議さ・素晴らしさを伝えるべく講演や執筆活動を行っている。著書に『すてきな 地球の果て』(ポプラ社)、『北極と南極 生まれたての地球に息づく生命たち』(文一総合出版)がある。

Vol.39 上原ひろみ

Vol.37 尾野真千子


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