TRADITIONAL STYLE

Vol.10 佐々木則夫


Jun 12th, 2013

Photo_shota matsumoto
Text_jun takahashi

2011年、FIFA女子ワールドカップ優勝、翌2012年ロンドンオリンピックでは準優勝という偉業を果たし、サッカーファンはもちろん、日本中を元気にしてくれた女子サッカー監督の佐々木則夫さん。今回インタビューをした場所はかつて佐々木さんが電電関東サッカー部の現役の頃によく通っていた、思い出のサッカーグラウンドです。

サッカー、そしてペレとの出会い。

ー まずは佐々木監督とサッカーの出会いを教えてください。

佐々木 則夫 僕は小学生の時、転校が多い子だったんです。3回目に転校した学校で初めてボールを蹴る遊びをしたときに『これがサッカーだよ』って教えられたんです。それまではサッカーなんて知らなかったので。ちょうどその頃、メキシコのワールドカップで、サッカー界のスーパースター、ペレ率いるブラジルが優勝したシーンをテレビで見て、衝撃が走ったんです。それから、大好きだった野球や柔道を一気に抜いて、サッカーが一番好きになりました。転校が多くて寂しいこともありましたが、サッカーに出会えたことはラッキーでしたね。

ー その当時は小学校などでサッカーを教えていなかったんですか?

佐々木 則夫 そうですね。ただ、僕が通っていた蕨東小学校はたまたまサッカーが盛んな学校でした。隣の浦和でもサッカーをやっていたんです。今でも埼玉南部にサッカーの強豪チームが多いのは、そういった伝統があるからかも知れませんね。

ー メキシコオリンピックで日本代表が銅メダルをとったのが1968年。そのときはもう熱狂的に見ていたんですか?

佐々木 則夫 はい。全部の試合を見た記憶はないんですが、日本代表が銅メダルをとった試合は見ましたね。なによりその2年後、70年に僕のスターである、ペレが在籍していたサントスFCというチームが来日して、当時のサッカー日本代表と親善試合をしたのですが、その時はかなり興奮していました。

学校を抜け出した佐々木少年。

佐々木 則夫 当時中学生だったんだけど、先生に事情を話して学校を早退したいと何度も伝えても、当たり前だけど首を縦に振ってくれなかったので、抜け出すことにしたんですよ。

ー 怒られるのは覚悟のうえで?

佐々木 則夫 はい。自分がサッカーを始めるきっかけになった、あのペレが荒川を渡った向こうに来ている、と聞いたら何が何でも行くべきだと子供ながらに思いました。しっかり給食を食べてから仲間と昼休みに抜け出して、蕨駅まで一気に走り抜きましたね。一応友達には行き先を伝えておきました。心配かけないように。

レギュラーになるためのアピール作戦。

ー そんなわんぱくな中学時代、サッカーでは活躍したんですか?

佐々木 則夫 大きな怪我をしてしまって、残念ながら活躍できませんでした。スキーで怪我して、治ったと思ったら今度は応援団長を務めた運動会で櫓から落ちちゃったりして。

ー サッカーじゃないところで怪我してたんですね。それでも高校はサッカーの名門である帝京高校へ進学されてますよね。サッカーに対する熱が半端ではなかったんですね。

佐々木 則夫 中学時代は、怪我ばかりでサッカーが思うようにできなかったから、その反動もあってか、高校では中途半端なところではなくて、全国選手権に出場できる確率の高い学校へ行こうと決めたんです。でも、あそこはガラが悪いぞ、とか周りに言われつつ(笑)それでもトップでサッカーを経験したいという志があって。

ー 名門校でレギュラーを勝ち取るには苦労も多かったと思います。

佐々木 則夫 そうですね。1年生だけで120人もいるんですよ。もちろん途中で辞めていった選手もいましたが、とにかくすごい人数で。まず自分の名前を知ってもらうこと自体が大変なんです。埼玉選抜とか東京選抜に選ばれた子たちは、『じゃあ、見ようか』という感じで、すぐに見てもらえていました。だから、僕は自分をアピールするために最後まで残って、わざと先生の駐車場の近くで練習したり、運動着の名前が書いてある方をしっかりと向けて得意なプレーを見せたりしていましたね(笑)。

ー その努力もあって3年生のときにはキャプテンを務めたんですよね?

佐々木 則夫 そうなんですが、僕の学年って弱かったんです。何故かというと僕たちの先輩が選手権に出られなかったから。大きな大会に優勝した学校には、翌年全国から猛者が集まってくるものなんです。

ー なるほど。選手権で優勝した学校は、やはり人気が集中するのですね。

佐々木 則夫 そうですね。僕が1年生のときに帝京が選手権で優勝したので、ひとつ下の学年は全国から優秀な選手が来ました。一般的に高校サッカーのレギュラーメンバーは3年生の比率が多いものなのですが、当時の帝京のレギュラーは後輩ばかり。3年生のレギュラーは僕を入れて2人くらいしかいなかったので、サッカーとアピールの上手だった僕がキャプテンを務めたんです。

監督学とサプライズ演出。

ー そんな高校時代の経験が、今の監督学に影響していると聞きました。

佐々木 則夫 大いにあります。帝京高校サッカー部を9回の全国制覇に導いた、古沼貞雄監督のサッカーの教えは、今でも僕の指導や監督に活きています。ちなみに元々古沼先生はサッカーではなくて陸上の専門だったんです。指導としては、とにかく教え過ぎない。だからこそいろいろ学べるんです。

ー 教わらなくて、いろいろ学べるというのは?

佐々木 則夫 考える必要が生まれるからです。極端な話、言われたとおりにやることは誰でもできますが、言われないでもチームが強くなるためには、選手一人一人が考えて、勉強しなきゃいけないというのもあるんです。それがやっぱりサッカーにおいて非常に効果的なんだなと感じました。

それ以外にも、走る、蹴る、当たるという、基本の三点を徹底して指導してくれましたし、モチベーションの上げ方とかもすばらしいものがあって、それは今でも参考になっていますね。

ー モチベーションの上げ方とは?

佐々木 則夫 例えば、ピッチでの練習も最後に達成感を与えるような構成にしていたり、時に選手たちにはいろんな意味でサプライズを用意したりして楽しませていました。合宿中、突然喫茶店に連れて行ってくれたこともありましたね。そういったピッチ外での演出も、今の監督学において勉強になっています。

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燃え尽きた、大学時代。

ー 明治大学時代もサッカーを続けていたんですか?

佐々木 則夫 もちろんサッカーはずっと続けていましたが、何の成果もなかったんです、個人的には。何の大会も優勝してないし、大学選抜にも選出されませんでした。ある意味、バーンアウトしたような感じでしたね。

ー 実は大学時代のお話をあまり聞かないなと思っていました。

佐々木 則夫 大学の4年間、いろんな経験をしたから無駄なようで無駄ではない。だから、逆に社会人になったら強いチームをつくろうと、そんな気持ちがあったかもしれません。中学でできなかったことを高校でやってきたから、大学でできなかったことをもう1回社会人でやってやろうかなと。そしてトップのレギュラーの選手になれなければ、指導者になりたいと思っていたんです。

高校時代、部員達に直接指導しながら、チームのオーガナイズをしていた経験や、古沼監督に任されてた部分は自分なりに勉強して実践していたので、だんだんと指導者の道に興味が出てきたんです。

ところが、大学は文系だったので、体育の免許を取るのは無理だったんです。そこで就活しながら、何かしら指導の経験を積むため、個人的にボランティア活動を3年間ぐらいしていたんです。スキーのコーチの資格を取り、それで子供たちをスキー場に連れていってボランティアで指導したりしてましたね。

社会人チームからプロへの転機。

ー その後、電電公社に就職。どんな業務をしていたんですか?

佐々木 則夫 サッカー部に在籍しながら、いろいろやっていました。料金未納対策とか、広報とか。せっかくなら面白く働きたいと思い、自分からどんどん部署異動を申し出ていました。ちょっと自慢なのですが、当時、埼玉のNTTの職員で僕の顔を知らない人はいなかったんですよ。

ー 有名な社員だったんですか?

佐々木 則夫 埼玉支店長よりも僕のほうがはるかに有名だったかもしれません・・・。当時、社員が見るためだけの番組を会社がつくっていて、そのキャスターに抜擢されたんです。毎週月曜日に、埼玉支社の社員達はブラウン管越しに僕の顔を必ず見るんです。どうやら電電公社の社員たちが月曜日から気持ちよく働くために、スポーツの爽やかなところをまず見せようと。そんな広報課長や部長の思惑があったんですね。

ー そしていよいよ大宮アルディージャが誕生し、女子サッカーの道に進むんですね。

佐々木 則夫 はい。ちょうど民営化になって、NTT関東は野球は残すけど、サッカーは廃部というのが決まっていました。そんな状況なのにも関わらず、サッカー部は結構いい成績だったんです。そうしたら、新しく就任した埼玉支店長が『もうNTTの仕事は十分やったから、君たちをプロ化する仕事にチャレンジしたい。頑張っているから一緒にやろう』って言ってくださったんです。そうしたら、本当にプロになりました。今でも感謝しています。

電電関東時代を含めると10年間選手としてプレーをし、その後指導者として関わっていました。いろいろと奔走していた頃、日本サッカー協会からぜひ女子サッカーの指導を、と声を掛けてくださったのです。

ー 女子サッカーの指導者になることにご家族はどんな反応だったのでしょうか。

佐々木 則夫 NTTに24年目も務めていたので、JFA(日本サッカー協会)からオファーがあった際、正直自分自身が一番悩んでいました。それを見ていた妻が、何のためらいもなく背中を押してくれたんですね。今の僕があるのは、やはり家族の支えがあってこそなのです。

生き方へのこだわり・チャレンジしていること。

ー 監督が生き方においてこだわっていること、チャレンジしていることを教えてください。

佐々木 則夫 常に誠心誠意取り組むということ。自分なりに。最善の準備をしたり、最善の対応をしたり、最善の努力をするということに尽きるかもしれない。本当に最善のことをやってきたか? と自問自答すると、ちょっと怪しい部分もありますけどね(笑)。これはサラリーマン時代に課長によーく言われた言葉なんです。「お前は誠心誠意やったか? 」と。

そしてチャレンジしていることは、目標を明確に持つことです。誰しもやはり目標がなかったら、1日1日事が進まないですよね。だから、常に目標とかゴールとかいうイメージは持っていますね。長期的、中期的、短期的な目標をしっかり持った中で行動することです。

ー 今現在の目標はなんですか?

佐々木 則夫 7月の東アジア大会で連覇することを直近の目標にしています。そしてその先には、ワールドカップの予選、更に本戦に向けて誠心誠意準備すると。

ー お手本としている人物はいらっしゃいますか?

佐々木 則夫 サッカー選手では、カズ君(三浦和良)を本当に尊敬しています。年齢を重ねながらも、第一線で本当にサッカーを楽しんでる。それに、サッカーをさまざまな角度で表現してくれていますから。自分も女子サッカーの発展に対しては、いろんな角度から発信していきたいなと思っています。

ファッションの流儀。

ー 話をガラリと変えますが、佐々木監督のファッションスタイルの流儀にたいして、こだわりってありますか?

佐々木 則夫 やっと出てきましたね。ファッションの話(笑)。一応、仕事、遊び、サッカーを見に行く時など、その日の行き先に合わせて、ふさわしいものを選ぶようにしています。そんなに洋服を持っていないので、組み合わせを工夫して。でも最近、素敵なスーツを提供していただくことも増え、着こなし方に悩んでだりしています(笑)。特にネクタイの結び方がいまひとつ下手なんです。結んでみると、右に寄っていたりしてね。

ー ディンプルが重要ですよね。

佐々木 則夫 はい。今日は結んでくださったから、良い感じですが、自分だとどうもね。

ー やっぱり格好良く”シュッ”っとスタイリッシュであって欲しいです。

佐々木 則夫 萎縮して”シュン”としちゃう(笑)。時には野暮ったくなってしまうけど、それでも自分なりに工夫するのが楽しいですね。

ー オフの日はどういう格好をされているんですか?

佐々木 則夫 オフの日はジーンズが多いですね。ラフなスタイルをしています。もちろん妻のアドバイスを受けたり……。このひげはここ(おでこを指さして)が薄くなってきたから下にボリュームを持たせて。

ー 視線を移動させるということですね?

佐々木 則夫 そうです。ヒゲにね。

ー 数年前は髪の毛の色がグレーで、レアル・マドリードのモウリーニョ監督のようで格好良かったです。

佐々木 則夫 長いスパンで海外遠征に行っているときに、キャンプ先にあった鏡に、毛を染めている自分の姿が映ったときに情けなくなり、それから1年間ぐらい染めずにいました。

そしたら、サッカーの普及活動で小さな子供たちにサッカーを教えていたとき『おじいちゃん』って言われてしまって。自分の年齢は解っていても、「おじいちゃん監督」はまずいなと(笑)。それからは自分なりに考えています。

歩歩是道場

ー 最後に佐々木監督の大切にしている言葉を教えてください。

佐々木 則夫 禅の教えで、「歩歩是道場」(ほほこれどうじょう)。僕の座右の銘です。

言葉の由来は、静かに修行ができる道場を探していた修行僧がある日、街で釈迦の弟子に偶然会ったから「どこから来たの?」と聞く。すると「道場から来ました」と弟子が言ったんです。修行僧はちょうど良いなと思い「その道場はどこか」と聞くんです。その回答が「まっすぐな気持ちがあれば、どこでも修行の場になる」と答えた、という言い伝えなんです。

心がけ次第で、どんな場も自分を高められる道場になるって意味なんです。
僕自身が決して平坦ではない人生を歩んできて、今こうして監督をしています。いろんな寄り道をしているようで、全ては勉強だったんだなって。そしてこれからもこの言葉を胸に、いつでも誠心誠意がんばっていこうと思っています。

Vol.11 中川一康

Vol.09 吉田義人


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