NEWYORK LIVES

篠木清高「挫折と失敗があったからこそ今がある」


Dec 13th, 2016

Text_Kiyotaka Shinoki

ハワイでの家族写真。

今年で在米11年を迎えた。当時28歳の僕には、現在のニューヨークでの暮らしは到底想像できるものではなかったと思う。今は大好きな妻サチコと結婚して早5年が経ち、今年の5月には長男の絽依(ロイ)が生まれた。仕事もプラベートも実に充実していて、来年には40歳を迎える。

そんな僕が、レストランの仕事を選んだのは幼稚園の時の作文まで遡る。あの頃から「ぼくのゆめはコックさん」と書いていた。そこからずっとその夢を持ち続けて今に至る。

幼稚園の頃の僕。

高校を卒業し、念願の料理人への道を歩き始めた僕は、もちろん未来にニューヨークでシェフとして働くとは想像もしなかった。 3年半勤めた会社を退職後、当時飲食ベンチャーで急成長をしていた<株式会社ちゃんと>に就職した。とにかく夢中になって夢を追っているうちに、未来が夢を追い越して行き、地元で仲間たちが集まる小さな居酒屋でもできたら本望、と思っていた僕が、28歳の2月にはニューヨークに向かう飛行機に乗っていた。仲間達には「ニューヨーカー!すげーな!」と囃し立てられていい気分だった。もちろん、その頃の僕は希望と自信に満ち溢れ、意気揚々と、エンパイア・ステート・ビルの展望台に立って「僕はこの街で一番のシェフに登りつめる!」と本気で思っていた。2005年3月「CHANTO NEW YORK」がオープンした。

CHANTOのダイニングと僕

現場の責任者として、厨房やマネージメントを担当し、とにかく夢中で働いた。現地採用のスタッフには全く言葉が通じない。「英語なんて使わない!俺日本人だし!」と言っていた高校時代の僕を恨んだ。来る日も来る日も、とにかく朝から晩まで休みなしに働いた。誰よりも働けば結果が出せると思っていたが、まさに地獄と言っていいほど、何をやってもうまくいかなかった。挫折に挫折を重ね、完全に自分自身を見失っていた。仕事もうまく行かないのに友達なんかつくれないと強情を張り、額(ひたい)に孤独というタトゥーが入っているのではと思うほどの孤独に、心身ともにボロボロだった。

この頃、子供の時から好きだった絵を一人で描いていた。

2008年の夏、<CHANTO>はアメリカから完全撤退し、お店は閉店、アメリカの運営会社も倒産をした。一番辛かったのは、今までお店を支えてくれたスタッフ達に、クビを伝えるときだった。相変わらず言葉が通じないスタッフたち一人一人を呼び出して、ジェスチャーと筆談で、お店が終わることをなんとか告げた。スタッフ達は一様に明るく振舞ってくれたが、僕は自分の抱えていた責任の重さに押し潰された。彼らの家族まで路頭に迷わせてしまうと思うと、彼らの目を正面から見ることができなかった。31歳の僕は圧倒的な挫折を味わった。

それでも、僕の心の中心は折れなかった。 そんな心と身体を与えてくれた両親にはとても感謝している。この頃になると僕を応援してくれる人たちもニューヨークに少しずつ現れた。この街には真剣に頑張っている人を支えてくれる気概がある。まさに大失敗をしてしまった僕をなんの利害もなく応援してくれる人たちに、心から救われた。彼らに「敗北のまま日本に帰る」と言ってニューヨークを去ることは、自分自身の人生に蓋をしてしまう感覚があった。僕と同じような失敗が起きないために、この場所で出来ることがないか…と考えるようになっていた。

同年コンサルティング会社「A&K RESTAURANT CONSULTANTS」をパートナーと立ち上げ、ニューヨークでの店舗出店や、レストランのプロデュース、立て直しなどをサポートする仕事をスタートした。「失敗は成功のもと」とはよく言ったもので、今までの経験を活かしてサポートしたレストランやカフェは、順調に成果を出してくれた。少しばかり自信を取り戻しつつあったときに、クライアントから「この店を一緒にやらないか?」とオファーを頂いた。それが<BOHEMIAN NEW YORK>という紹介制のレストランだ。僕も彼らの想いに賛同して、コンサルティング会社をしばらく休止して、シェフ兼ゼネラルマネージャーとして、お店の中心に立った。 オープン当日の夜「後はキヨのやりたいようにしていい。任せたぞ!」と言ってニューヨークを離れたオーナーからの熱い信頼に、僕も完全にスイッチが入った。

BOHEMIANをオープンした頃の僕。

今までのすべてを注ぎ込んだお店は、現在では7年が経過。連日満席の日々は続いていて、仲間たちと共に驚異的な売上を維持している。そうそう<CHANTO>でクビにすることになったスタッフたちの一部は、立ち上げ時に「もう一度一緒にやってほしい」と呼び戻し、今でも大活躍してくれている。徐々にコンサルティングも再開し、様々なジャンルのレストランやカフェのプロデュースを始めることができた。2012年からは東京でも<BROOKLYN RIBBON FRIES>というブランドをパートナー達と立ち上げ、現在では駒沢、表参道、原宿に出店し、それぞれのお店に仲間達がいる。

プロデュースするお店の多くはインテリアデザイナーの妻サチコがデザインを手がける。写真はBROOKLYN RIBBON FRIES駒沢店。

そして、2016年の春には、ロング・アイランド・シティに<TAKUMEN>をオープンすることができた。「居酒屋」をコンセプトに、様々なクラフトマンシップを体現している仲間やパートナー達の協力のもと、ローカルのお客さんで毎日溢れる自慢のお店になった。居酒屋ではあるけれど、コミュニティとの関わりを強く持ちたいとの想いから、朝8時からコーヒースタンドを開けている。お客さんたちとのコミュニケーションを簡単に取れる朝は実に面白い。コーヒー1杯を手渡ししながら様々な言葉を交わし、時には会話が弾みアイデアももらえたりする。きっとこのお店も他のお店たちと同じように、大小様々な失敗と成功を繰り返しながら成長を続け、たくさんの人たちが混じり合うことで、どんどん進化が加速していくだろう。そんなことを想像すると、やはりワクワクしてしまう。

TAKUMENのフロント。正面右がコーヒースタンド。


レストランプロデューサー
篠木清高

1977年生まれ。高校卒業と同時に幼少の頃から憧れていた料理の世界へ進む。2005年から<CHANTO NEW YORK>のエグゼクティブシェフとしてニューヨークに移住。2008年、A&K RESTAURANT CONSULTANTSを立ち上げ、様々なジャンルのレストランをプロデュース。 2009年に代表としてオープンした紹介制のレストラン<BOHEMIAN NEW YORK>は今でも予約が取れないお店として知られる。2012年には東京・表参道に<BROOKLYN RIBBON FRIES>をオープンし、その後、駒沢と原宿にも出店。そして2016年、多彩なパートナー達と共に、日本固有のカルチャーでもある「IZAKAYA」をブランディングの軸としたレストラン<TAKUMEN>をロング・アイランド・シティにオープン。

SADA ITO「自分を傷つけ、癒し、受け止めてくれたニューヨーク。」(1999.10-2001.02)

阿部好世「ひとつひとつ積み重ねた、今の自分に繋がる大事な街」(1999.12〜2001.8)


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