Vol.51 トラッドな春夏スーツ服地の知識を蓄えれば仕事も快適にこなせる。
サマースーツの定番服地となるウールトロについて、ニューヨーカーのチーフデザイナーの声と共にその特徴を予習。今シーズンのス...
NEWYORK LIVES
マンハッタンに移り住んだのは、ニューヨーク州北部の大学を卒業した1994年の春だった。同じ写真学科の学生が卒業の半年くらい前から、卒業したらニューヨークに住もうと話を持ちかけてくれていた。100人以上いる同じ学科の卒業生の中でも、卒業したらニューヨークに出てカメラマンになろうとするものは10人にも満たず、僕は無謀に希望だけを持つその中の一人だった。
そもそも写真に関しては、アメリカ一といわれる大学がニューヨークにあると言われて喜んで入学を決めたのだが、その場所はニューヨーク・シティではなく、ニューヨーク・シティから車で8時間も離れたロチェスター市というところにあった。だから卒業したら絶対当初の目的の地であるニューヨーク・シティに住もうと決めていた。とはいえ、住む場所も知人も何のあてもなく、一緒に卒業するとても優秀な(写真のうまい)アメリカ人が誘ってくれるのであれば、それより頼もしいことはないとその話に乗ったのだった。
初めて借りたアパートは30thストリートの8thアヴェニューと9thアヴェニューの間、当時プロジェクトと呼ばれた家賃の値上げ制限のかかったエリアだった。プロジェクトは、年々高騰していく家賃に対して昔から住む住人たちを保護する目的で、一度住めば家賃の金額は据え置きというとても良い制度だ。しかし僕らのように新しく入るものには新しい金額が設定される。そうやって少しずつ家賃は上がっていくものだ。それでも今思えばとてつもなく安い金額だったが、学校を卒業したばかりの無職の僕たちには厳しい金額だった。
最初に住んだエリアは家賃制限のためマンハッタン内でありながらも街並みの変化が少ない
引っ越してきた最初の年はとにかく写真業界に顔を覚えてもらうために、むやみやたらにパーティやら何やら無料である限り、顔を出した。今思うと、もともと社交性のない自分には無駄な時間と余計なストレスを溜めただけだったように思うが、同行していたルームメイトにはとても効果があったらしく、人脈をどんどん広げていき、半年後には早くも撮影の仕事を始めていた。おかげで僕もそのおこぼれに預かってアシスタントをしたり、数本ではあったが撮影の仕事をもらったりしながらなんとか家賃を払い続けることができた。
一年遅れて同じ大学で仲の良かったマイク・ミンがマンハッタンに戻ってきた。戻ってきたというのは、彼はもともとニューヨーク・シティの生まれ育ちだからだ。彼とはのちに2人のデビュー作となる「Let’s go for a drive」という作品群をつくるためアメリカ横断の旅に出かけるのだが、その話はまたいつか。
彼の母親のマンションは30thストリートの2ndアヴェニューと3rdアヴェニューの間で、僕の住むアパートと同じストリートだったが、うちが西の端だとするとマイクのうちは真反対の東端という位置関係だった。徒歩およそ30分という距離だ。30thストリート上には特に目立った建物も店もなく、ある意味地味な通りで、その通りをお互い行ったり来たりしながらほぼ仕事のない一年を過ごした。それまでのタクシー、パーティ、タクシー、また次のパーティのような、いかにもニューヨークらしい動き方から一転して“ひたすら歩く、たまに地下鉄、目的地特になし”という移動の仕方をマイクから教わった。
時にはセントラルパークの真ん中からイーストヴィレッジまで1日かけて歩く。時にはまだ何もなかったチェルシーエリアからブルックリン・ブリッジまで斜めに移動する。その間にはウェストヴィレッジやチャイナタウンがあって、安くて美味いと評判の店でしか食べない。それがその日一度きりのちゃんとした食事。
そこで教わったのは、出稼ぎや観光に来る通りすがりの大人たちのニューヨークの過ごし方ではなく、地元の、お金をまだ必要としない、Kidsたちのニューヨークの生活だった。その頃の僕は20代前半でとてもkidsとは言えない歳だったが、金のないことに変わりなかった。ルームメイトの出世を傍目に見ながらも、何をせずとも有意義な毎日だった。
一晩かけて歩きながらストリートを撮影した《30th Street, New York NY》より
こうした毎日を過ごしたおかげで、すっかりマンハッタンは自分にとって第二の故郷のような場所になり、30thストリートは今でも懐かしいと思える通りになった。数年後東京に住むようになってから仕事でニューヨークを訪れた時、懐かしい30thストリートを写真に撮ろうと思い立った。真夜中にその通り沿いの建物をただただ同じアングルで撮影していく。
数メートル歩いてはシャッターを切り、イーストリバーにたどり着くまで東へ進む。たどり着いたら今度は通りの反対側の建物を撮影しながら西にハドソン・リバーへと向かう。特別なものが何もないこの通りこそ自分にとってのニューヨークだったのだと思う。
Photographer/Movie director
若木信吾
1971年3月26日静岡県浜松市生まれ。ニューヨーク州ロチェスター工科大学写真学科卒業後、雑誌・広告・音楽媒体など、幅広い分野で活躍中。また2004年に雑誌「youngtreepress」の編集発行を自ら手がけるほか、2007年に第一回監督映画『星影のワルツ』、2009年に『トーテムSong for home』、2015年に『白河夜船』(原作:吉本ばなな)が公開され、映画監督としても国内外から高い評価を得る。2010年4月に故郷の浜松市に国内外に写真集を集めた書店『BOOKS AND PRINTS』をオープン。今年の10/7まで浜松市美術館で大規模個展「Come&Go」を開催中。https://www.instagram.com/shingowakagi/
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