Vol.51 トラッドな春夏スーツ服地の知識を蓄えれば仕事も快適にこなせる。
サマースーツの定番服地となるウールトロについて、ニューヨーカーのチーフデザイナーの声と共にその特徴を予習。今シーズンのス...
NEWYORK LIVES
ニューヨークに来て初めて住んだ家、ニュージャージー
2005年、僕はチェルシーにあるアートブックショップ、Printed Matterでインターンを始めた。ニューヨーク市立大学で写真の勉強を始めて数年、すでに卒業間近だったけれど、卒業後のことは何ひとつ決まっていなかった。ギャラリーがアシスタント募集の広告を出せばすぐに連絡をしたし、背伸びしすぎているなと自分で理解していながらも美術館やアート系NPO組織にも履歴書を送った。面接まで進んだこともあったけれど、留学生のビザの世話はできないとほぼ全ての面接で言われた。そんな時に、Printed Matterの病気がちだったスタッフがクビになり、僕はインターンから週2、3回勤務のバイトへと「格上げ」された。Printed Matterで働くことになった!同じように留学生でフランスから来ていたクラスメイトのGに言った。彼も卒業後の職探しに難航していた。おめでとう!彼が短い返事をくれた。
ウィリアムズバーグのアパート
しばらくして、Gがギャラリーアシスタントの職を得た、と知らせてきた。フルタイムだった。僕は大いに落ち込んだ。それがフルタイムだったことはもちろん、そのギャラリーには以前僕も応募していたから。おめでとうと伝える気にはなれず、同じチェルシー勤務になったね、とメールを返した。エクスクラメーションマークすら打てなかった。
ウィリアムズバーグ、プールでの音楽祭
僕は、アーティストアシスタントの不定期バイトをふたつほどしながら(制作の手伝いではなく事務仕事だったけれど)、Printed Matterでのバイトを続けた。ちょうどAA・ブロンソンがディレクターを務めていて、そして彼らがはじめてのNY ART BOOK FAIRの準備を進めていた時期。クィアZINEをはじめとした性的マジョリティに属さない作家による美術表現が大きな盛り上がりを見せていた時期だった。Printed Matterにはクィアの作家によるZINEが並び、チェルシーの幾つかのギャラリーはそのような作家を抱え、意図的な展示を開催していた。Gが勤めていたギャラリーもそのようなスペースのひとつだった。リーマンショック前で、ブッシュが再選を果たしてしまった最悪の時期。それでもアート界は好景気に沸いていたように見えた。クィア系作家を見せていたギャラリーも大いに持てはやされていた。もちろん、商業主義から距離を置いて、信念を持って活動を行っている作家たちもたくさんいた。チェルシーの路上や、ブルックリンの小さなスペースなどで、様々なパフォーマンスが行われていた。
友人たちと出かけたロングアイランドビーチ
そんな中、確か夏の終わり頃。すっかりギャラリスト然としたGから電話で連絡があった。ありえないことだ、オーナーは狂ってる!と彼は前置きして、秋の展示が立て続けにふたつキャンセルになり、とりあえずひとつ目を自分がキュレーションすることになったと言う。グループ展でタイトルも決まっている、「When Fathers Fail」。君の作品も展示したいと思っている。オーナーは、僕が送った履歴書を見ただろうか。途端に恥ずかしくなる。でも、そんな考えもすぐに消えた。僕はふたつ返事で参加することを伝えた。
ウィリアムズバーグの風景
話はコロコロと転がり続けた。オーナーが君の作品を気に入っている。その次もひと月空いているから、そこで個展をしないか。そんなこと言われても、残り数週間しかなかった。今ならそう思って断るかもしれない。でも、僕は幸いにも若かった。携帯電話がずり落ちないように両手で抱えて何度も頷いた後に言った。もちろんもちろん。そうして、僕の初めての個展が開催された。2006年。気がつけば、あれから10年経っている。
駅からの帰り道
展示はそれなりに成功し、幾つかの媒体にレビューも載った。もう直ぐビザが切れる時期で、ギャラリーはアーティストビザの取得をサポートすると言ってくれた。2度目の個展を計画している頃に、Gがギャラリーをやめた。「Fuck him」と言い残して彼はヨーロッパに戻っていった。このギャラリーは立ち行かない、誘っておいてごめんだけど。そんなことを言って。そしてそれは現実となる。リーマンショックが起きた。あっという間にアート界は保守的になり、クィア系の作家を抱えていた幾つかのギャラリーはその扉を閉じた。僕が所属していたギャラリーも。
ミッドタウンの風景、雨の日
ニューヨークで活動を続けるという夢はたち消え、今は東京にいる。日本に帰ってきて数年が経って、震災があった。オーナーから、大丈夫?というメールが来た。結局、それが彼からの最後の連絡だった。彼は自ら命を絶つ決断を下した。でも、彼とGにより、そして当時のニューヨークのクィアシーンによって、作家として今活動している僕が形作られた。それだけは確信できる。僕のニューヨーク生活が成功だったかと言われると、結果的にどちらかといえば失敗だったのかもしれない。それでも、今も思い出すのは2000年代中ごろ、オーナーやGとゴンザレス=トレスやサリンジャー、沖縄、カーソン・マッカラーズやドノヴァンについて、ギャラリーのバックルームやバーで語り合った日々のこと。その日々が、確かに今の僕を形作っている。10年経って、今ならその日々が輝かしく思い出される。それくらいに年は取ったし、年をとるのも悪くないな、と思い始めている。
Artist
ミヤギフトシ
1981年沖縄県生まれ。東京都在住。
留学先のニューヨークにて、美術関連書籍の専門店に勤務しながら制作活動を開始。自身の記憶や体験に向き合いながら、国籍や人種、アイデンティティといった主題について、映像、オブジェ、写真、テキストなど、多様な形態で作品を発表。アーティストランスペースXYZ collectiveの共同ディレクターをつとめる。近年の主な展覧会に、「あいちトリエンナーレ2016: 虹のキャラヴァンサライ」(愛知芸術文化センター他、2016年)「六本木クロッシング2016展:僕の身体、あなたの声」(森美術館、2016年)、「日産アートアワード ファイナリスト7名による新作展」(BankART Studio NYK、2015年)「他人の時間」(大阪国立国際美術館、クイーンズランド州立美術館ほか、2015-16年)などがある。文芸、美術媒体への寄稿も行っている。
本田ゆか 「初めてのニューヨーク、そこでミュージシャンへの新しい扉が開いた。」
若木信吾 「写真家としての土台を築いた第二の故郷」(1994.05〜1996.04)