美人白書

Vol.40 土井香苗


Feb 24th, 2016

photo_nahoko morimoto
text_noriko oba
edit_rhino inc.


弁護士時代に経験した難民弁護をきっかけに、人権問題解決のための道を歩み始めたという「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」のジャパンディレクター(日本代表)、土井香苗さん。彼女の現在の活動や、仕事への想い、またリーダーとしてのあり方とは。大学生のころの家出を機に、行動範囲も広がり、ファッションまで激変したという、驚きのエピソードもお伺いしました。

険しくも、まっすぐな一本道を歩く。
土井香苗さんの美の秘訣

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問題は、騒ぐだけでは解決しない。

――はじめに、土井さんが日本支部の代表を務めるNGO団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」について教えてください。

「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」(以下HRW)は、ニューヨークを本部に世界約90カ国に支部がある「世界中の人の権利と尊厳を守る」人権NGOです。人権といっても女性や子ども、難民、また性的マイノリティの方など、幅広いのですが、弱い立場に置かれている人が差別を受けることなく、また戦争や独裁政権下にあっても、自由や平等な機会を得られるよう活動をしています。

――最初にニューヨークに誕生したのが’78年、日本支部を立ち上げたのは’09年だそうですね。日本の「HRW」はどのような活動をしているのですか?

これは東京オフィスだけでなく世界中の「HRW」に共通しますが、最初に独自の調査を行い、その報告書を1冊の文書にまとめて世界中の事務所と共有し、問題解決へ動くというのが基本スタンスです。最近日本から出したのは、乳児院と児童養護施設に関する調査書。予期しない妊娠や育児放棄などが理由で生みの親と暮らせない子たちです。家族と暮らすことは、子どもの権利のひとつですが、日本では里親のもとに行ける子は1割強。8割以上が施設に入って集団生活しています。

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――少ないですね。

9割が里親のもとに行けるオーストラリアをはじめ、世界と比べても圧倒的に少ない数字です。2年間かけて全国を行脚し、施設を出たばかりの若者など、200人以上の話を聞き、調査書をつくりました。現在、このような状況を変えるために活動をしています。

――活動というのは、具体的にどのような?

政府に働きかけ、制度を変えるよう提言するのです。実際にこの活動には動きがあり、先日、就学前の子どもについては、施設には入れずに原則として里親のもとで育てる、と制度改革のたたき台案がでました。

――それは、法律が変わるかもしれなということですか…?

そうです。塩崎厚生労働大臣が、法律改正の審議会を立ち上げてくださって、ここまで来ました。今までは、戦後につくった法律をほぼそのまま使っていたのですから、実現すれば日本の現状を変える大きな改革になると思います。

――驚きました。政府にそういった交渉をすることもあるのでしょうか。

はい。アドボカシー活動、といってもあまりピンとこないですよね。政策提言活動、ってこれまたわかりづらいですが(笑)、それも仕事です。問題だ〜!と、わーわー騒ぎ立てるばかりではなく、問題提起とセットで、こういうメニューを実行してほしい、このように法律を変える必要がある。などの提言をすること。そのために、国会議員の方とお話しすることもあります。

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華やかな「資金調達」の現場に仰天!

――土井さんは日本支部を立ち上げる前、1年間ニューヨークの本部で働いていたのだとか。

はい。フェローとして働けるようになったときはすごく嬉しかったです。「HRW」は、インターンシップだけでも100倍の倍率で、ひとつのポジションだと300倍と聞いていたので、応募しても難しいだろうと思っていました。1年間、エンパイアーステートビル33階のオフィスで、ニューヨーカー気分を存分に満喫しましたよ。

――ニューヨーク本部での毎日はどうでしたか?

まず驚いたのは、資金調達のためのチャリティガラの華やかな世界ですね。700人規模でビジネスマンを集めて、フルコースのディナーときらびやかなエンターテインメントを提供し、寄付を募る。スケールの大きさとゴージャスさに圧倒されながら、こんな風に資金を集める世界があるんだ、と仰天しました。もうひとつは、NGOのイメージにありがちな「清らかな心の人たちが集まってボランティアを行う」と言ったら語弊があるかもしれませんが、そういったものをくつがえす、プロフェッショナルな団体のあり方に感動したんです。

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――というと?

首相とのアポイントを取り付けて政策提言をしたり、世界中にいる調査員の能力の高さ、各ジャンルを極めたプロ集団の働き方に感銘を受けました。「この1年で契約終了になりたくない、もっとここで働きたい!」と切実に思いましたね。

――その想いが通じて、日本支部が立ち上がり土井さんは代表に。これはニューヨーク滞在中に土井さんが成果を上げたということですか?

「HWR」としても、もともと日本のような大国が人権問題にちゃんと取り組めば、世界の状況がよくなるはずだと、日本にアプローチしたい気持ちがあったようです。そこに私が現れたので、じゃあ東京オフィスを立ち上げたら、という流れだと思います。

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心が折れる自由なんてない。

――日本支部の立ち上げは、スムーズにいきましたか?

いや、最初はすごく戸惑いました。オフィスの代表としての私の仕事は大きく分けて3つあるのですが、ひとつはさきほどお話しした政策を提言する「アドボカシー活動」、もうひとつは、こういった取材などで活動を広める「広報活動」、そして運営していくための「資金調達」です。東京でオフィスを立ち上げてみたら? と言われるのはうれしいことですが、イコール、運営のためのお金をウン千万単位で集めてごらん。ということですから。

――それは…。

えーー! そんなのやり方わからないよ! と思いましたよ(笑)。「HRW」は、お金を持っているビジネスマンに寄付をしていただくのが基本ですから、知り合いをあたったり、知り合いの知り合いを紹介していただいり…。奔走しましたが、全然うまくいきませんでした。でもある日、マネックスグループ会長の松本大さんがサポートを決めてくださったことから、事態は好転していきました。今でも、東京オフィスの支援のリーダーでいてくださっています。毎年ホテルオークラでガラパーティを開いて寄付を募るのですが、これが東京オフィスの収入の約7割を占めています。

――うまくいかなかったときは、途中でくじけそうになったりも?

資金調達のように、足りないということがはっきりと数字にわかるならまだいいのですが、アドボカシー活動のような制度そのものを変えようとする活動は、今どれくらい前に進んでいるのかが見えにくく、行き詰まったり絶望しそうになることは多々ありました。5、6年で制度改革など成果があれば早いほうで、その間も果たして成功するかはわからないけれど、とにかく続けるしかないという状況は精神的にキツいときも当然あります。

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――そんなとき、どうやってモチベーションを維持するのですか?

心構えというよりも、代表である私に「心が折れるという自由はない」というだけの話(笑)。リーダーが迷ったり「この案件はダメかも」なんて弱気なことを言ったが最後、まわりの人も状況もガラガラと崩れていきますから。「彼女が信じている限りは大丈夫だろう」と思わせることも仕事です。まぁ、折れる選択肢がないというのは、ある意味迷わないでいいというか、ラクな部分もありますよ。

――確かに。折れてもいいかなと思った途端に折れちゃうことはありますね。

もうひとつのモチベーションは、調査や講演で直接、被害者や弱い立場の人に会っている事でしょうか。当たり前ですが、本人と話しをするのと、新聞やネットのニュースで見るのとでは全然違いますよね。会って話しをすれば「こんな制度がまかり通ってはいけない」と強く感じますし、直接会う立場にいる自分は、彼らを代弁する者と自覚することでも奮い立ちます。

それは前職の弁護士時代から同じで、当時は難民の弁護をするために彼らに直接会っていたのですが、そのときから1対1で「会って話した」ことが原動力になっています。

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司法試験は、どうしても1回で受かりたかった。

――前職が弁護士というお話が出ましたが、司法試験に大学3年生で受かったそうですね。その年の最年少合格者だと聞いています。

それは試験用の勉強が得意だったからじゃないかな(笑)。模試で特別に成績がよかったわけではないですからね。当日に向けてピークにもっていくのが上手なんだと思いますよ。そのかわり試験の始まる1分前まで、目を皿のようにして勉強していましたけれど(笑)。

夫も弁護士で、彼とは同じ司法研修所で知り合ったのですが、8歳上なんですね。やっぱり8年間まじめにコツコツとやってきた人と、要領よく勉強して試験の当日は覚えているけれどその後は…(笑)という私とでは全然違って、彼のほうが断然法律は詳しいです。

――弁護士になりたかった理由は何ですか?

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特になりたかったわけではありません。当時、資格がないと女性が職をもって生きていくのは大変だという親に対して、反発する気持ちが大きく、だからこそ「早く終わらせたい。1回で受かってやる」という迫力はあったと思います。結局、司法試験の受験勉強中に家出して、そのまま今に至りますが。

――そんなことが。

家を出てからは、張りつめていた糸が切れたかのように、好きなことをしましたね。大学4年のときは1年間、アフリカにあるエリトリアという国で刑法づくりの手伝いをするボランティアに行って。弁護士時代は通常業務をしながら、難民弁護をしていました。日本に助けを求めてやってきたのに、助けてもらえるどころか強制収容されてひどい目に合って、やり場のない悲しみに暮れた難民に会い、彼らを弁護したことが、私が人権問題に一生を捧げようと思った大きなきっかけです。

――そのことが、今どんな風に役立っていますか?

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制度改革に向けたロビー活動やムーブメントづくりに取り組めたことです。難民救助のために個別に裁判で申し立てていても、そもそも制度自体が悪いと、たいした救済は望めませんので、当時から制度自体を変えようとする国会議員へのロビー活動をしていました。個人の弁護そのものよりも、その制度改革の活動が今の仕事に役立っていると思います。

弁護士の基本は、すでにある法律をどう使えば、依頼人に有利に働くかを考えることですから、もっと法律に能動的に関わりたいという想いは常にありました。法律自体を変える提案や、新しく制度をつくることを提言して、その後も制度がきちんと作用しているかを監視する今の仕事に、私はやりがいを感じます。

――「HRW」には、弁護士の方もたくさんいるのでしょうか?

とても多いです。弁護士だけでなく、検事や裁判官など、法律関係者は全職員400人のうち過半数かもしれません。調査するのが主な仕事なので、次に多いのはジャーナリスト。ほかには元国防省職や元外交官、武器の専門家や公衆衛生のプロ、保健関係の方などさまざまです。

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脱モノクロファッションのきっかけは、家出!?

――大きな組織や団体相手に、改正や新たな制度を求めるのは、一方で反発を買うこともありますか?

それは、もうしょっちゅう。制度が変わって利益を損なう人がいれば、彼らからは猛烈に嫌われますし、力のある立場の人たちが言われたくない事を言うのが仕事なので。それでも被害者のためには、空気を読まずに言うべきことを言うのが仕事です。度胸があるのかもしれませんし、心臓に毛が生えていると言われることも多いですが(笑)。別にそういうおじさん達に嫌われても何ともないです。何の借りもないですし。

私は自分のことを「必要にかられてなったリーダー」と言っているんですね。特に幼いころからリーダーシップを発揮していたタイプではなく、本当は誰かがやってくれていたらそれに乗っかりたいんだけど、誰もやっていないので自分がやらざるをえない、じゃあ人を巻き込んでやろう、そんな感じです。

――少し話題を変えて、ファッションについても教えてください。土井さんはどのようなファッションをすることが多いですか?

今日はちょっと違うのですが、最近はカラフルな服が好きです。中学、高校、大学とファッション誌を片っ端から読んでいたころは、モノトーン一辺倒でしたが。家出をしたあたりから毎日が楽しくなって(笑)、それが関係しているのかはわかりませんが、楽しみだったファッション雑誌もまったく読まなくなり、最近は色づかいも変わってきました。

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――弁護士時代と今では、ファッションも変わりましたか?

そうですね。法廷に行くときは、バリッとしたスーツを着て戦闘態勢で、おじさん達と法廷で闘ってました(笑)。でも、本当に肩が凝るんですよ、スーツは。今は比較的服装に関しては自由度が高いので、霞ヶ関で予定があるときも、スーツまでは着ずにワンピースにジャケットですかね。もうスーツは疲れました。

――では、最後に今後の目標などはありますか?

人権の問題を解決するために行動したいということだけは決まっていますが、ロールモデルがまだ日本にはいません。いつも最善の選択をしていくことですね。

――土井さんにとって美しい女性とはどんな人ですか?

能動的な人ですね。特別に世の中で注目されていなくても、自分の人生に対して、能動的な人はどんな人でも素敵です。能動的に生きるのは、自分を信じていないとできないと思うので、それが行動に出ている人は輝いて見えます。


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最後に土井香苗さんから
“美しくなるためのメッセージ”

人種差別撤廃運動の最中、暗殺されたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア氏の言葉。訳は、「そのために死ねる何かを見つけていない人間は、生きるのにふさわしくない」。日本では想像しがたいですが、これまで世界では、他人の人権のために命を奪われることも実際に起きていましたし、日本もまたいつ戦前のようになって人権活動が危険と隣り合わせになるかわかりません。いつまでものほほんと活動できると思うなよ、それくらい真剣な気持ちで仕事をするように、と自分への戒めとしての言葉で、心に刻んでいます。

今月の美人
土井香苗

1996年に司法試験に合格後、大学4年生の時、NGOピースボートのボランティアとして、エリトリアに赴き、1年間、エリトリア法務省で法律作りのお手伝いのボランティア。その後、1998年東京大学法学部卒。2000年司法研修所終了。2000年から弁護士。普段の業務の傍ら、日本にいる難民の法的支援や難民認定法の改正のロビーイング等に関わる。2006年6月米国ニューヨーク大学ロースクール修士課程終了(国際法)。2007年、米国ニューヨーク州弁護士。2006年から、国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチのニューヨーク本部のフェロー。2007年から日本駐在員。2008年9月から現職に。著書に「“ようこそ”といえる日本へ」(岩波書店)など。

Vol.41 米良はるか

Vol.39 上原ひろみ


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