TRADITIONAL STYLE

Vol.23 野崎 良太


Jul 9th, 2014

Photo_Shota Matsumoto
Text_Yu Onoda

特定のメンバーを持たない自由なミュージック・プロジェクト「Jazztronik」を主宰する野崎良太さん。2003年にリリースした「SAMURAI」が海外のクラブシーンから熱烈な支持を受け、その後も葉加瀬太郎や椎名林檎といった、国内外のさまざまなアーティストとコラボレーションを続けています。大学でクラシック音楽の薫陶を受けつつも、ダンスミュージックをつくるというその独特な立ち位置のルーツを紐ときながら、時代に先駆けて音楽の“ジャンルレス化”を押し進めてきた野崎さんが考える、音楽の未来に迫りました。

きっかけはテレビから流れる曲だった。

――音楽を始めたきっかけを教えてください。

野崎 良太 母親が音楽の教員だったこともあり、小さい頃からピアノをイヤイヤやらされていたんですけど、中学生で一回辞めてしまったんです。そして、高校1年生の時にまた自発的に再開するんですけど、そのきっかけは、いわゆるクラシックではないピアノ音楽を耳にしたことなんです。

ー 具体的にはどんな曲ですか?

野崎 良太 よく覚えているのは、テレビの曲です。

バックに「箱根 彫刻の森美術館」の映像が流れるテレビの天気予報で使われていた曲に衝撃を受けて。で、調べてみると米国のポップ・ピアニスト、ジョージ・ウィンストン「あこがれ/愛」という曲でした。

ー 原体験がテレビの曲というのも面白いですね。

野崎 良太 それだけではなく、KANさんの「愛は勝つ」や坂本龍一さんも好きで聴いていました。

あと、ピアノ曲ではないですけど、僕が長年一緒にお仕事をさせてもらっている葉加瀬太郎さんがやっていたクライズラー&カンパニーが小さい頃聴いたクラシックをポップにアレンジしていたことに驚いて、そこから自発的に音楽に興味を持つようになったんです。

アカデミズムとクラブミュージックの両立。

ー その後は、どんな音楽畑を歩まれてきたんですか?

野崎 良太 高校生の時、学校とは別に作曲の先生のお宅に通って、大学入試に向けた作曲の勉強をするようになるんですけど、当時、通っていた高校はダンスがすごい流行っていたこともあって、ダンスをやってた友達と「オリジナルのダンスミュージックをつくろうよ」って話していたり。

ー アカデミックな勉強もしつつ、一方でダンスミュージックにも手を出していたんですね。

野崎 良太 はい。自分のなかでは何の違和感もなかったですけど。

ー では、Jazztronikのカラーとも言える「ジャンルレスな音楽性」というのはこの頃の影響ですか?

野崎 良太 そうですね。恐らく、ジャンルに左右されない音楽の好みはその頃に形成されたと思いますね。今にして思えば、音楽の捉え方が純粋で、柔軟な時に色んな音楽に触れたことが良かったんでしょうね。

ー やはり若い頃に受けた影響っていのは、大きいですからね。

野崎 良太 大学生くらいまでの吸収力って、ものすごいものがあるじゃないですか。自分の土台にあるものはやはりその時代に培われたものだし、それ以降の音楽体験は自分が音楽制作をする時にはこれといった形で出てこないんですよね。

ー では、晴れて大学に受かった後は?

野崎 良太 夜な夜なクラブへ遊びに行く生活を送っていましたね。当時(90年代後半)は東京のクラブが盛り上がっていた時代で、平日でもお客さんが入っていたので、月火水木金土と文字通り毎日ですよ。

ー 学校の方はどうしてたんですか?

野崎 良太 行ってましたよ。クラブの後、そのまま朝になったら、また学校へ行って音楽の勉強をしてました。

僕が通っていた作曲の学科は一学年4、5人とか、ものすごい少人数で、先生の数も同じくらい。そうやってマンツーマンで教わっていたので、先生からは「結局、あなたは何がしたいの?」って言われてましたし、扱いに困っていたと思いますよ(笑)。

特異な音楽性を理解してくれる人は少なかった。

ー Jazztronikの活動はいつ頃から始められたんですか?

野崎 良太 大学在学中、学校では年に何回か提出するためにピアノ曲や弦楽四重奏とか、そういう曲をつくっていたんですけど、それとは別に自分が好きでやっていたのは、実はJazztronikのような音楽ではなく、大好きだった電気グルーヴに触発されたエキセントリックなテクノでした。

ただ、大学を卒業する頃にはテクノとは違う、新たに作った音楽に興味を持ってくれたレコード会社があって、Jazztronikの活動をやることは決まっていたんです。

ー なかなか快調な滑り出しですね。

野崎 良太 でも、その活動でいきなり生活出来るわけではないですし、就職活動をせずに迎えた卒業式の朝、母親から「あなた、卒業してどうするの?」って言われて、「ヤバい。何も考えてなかった!」って(笑)。それで慌てた僕は音楽学校の先生になった同級生に紹介してもらって、その学校で子供に音楽を教えていました。

ただ、Jazztronikとして出した最初の作品がたまたまヨーロッパで人気が出たことで、その後、あれよあれよという間に日本でも名前が広まって、運良くポンポンとメジャー・デビューが決まっていったんです。

ー 当時を振り返ってみてどうですか。

野崎 良太 今年でJazztronikの活動は16年目になるんですけど、デビュー当時は、自分がやりたいこと、つまりジャズもダンスミュージックも映画音楽もブラジル音楽も関係ないジャンルレスな音楽観を理解してくれる人がなかなかいなかったんです。

二つの世界を知るからこそ見えるものがある。

ー 当時はJazztronikのような存在は希少でしたよね。しかも、日本においては、楽器の技術やアカデミックな知識が要求されるクラシックをはじめとする音楽の世界と、技術や知識がなくともコンピューター1台で簡単につくることが出来るようになったクラブミュージックの世界には大きな隔たりがありますよね。

野崎 良太 そうなんですよ。確かにダンスミュージックのトラック・メイカーは楽器が出来ない人が多いですし、一方、俗にいうミュージシャン側は最新のダンスミュージックに対する知識を持っている人が少ないんですよ。

僕がデビューした当時、その両方を繋げられる人がホントに少なくて、最近ようやく徐々に増えてきたという状況なんです。

例えば、クラシックを聴いた後に、激しいテクノを聴くことも、ピアノの練習をした後にハウス・ミュージックをつくることもあったりして。何でそうなのかは分からないんですけど、自分はそういう人間なんだという認識のもと、つくる音楽を一つに絞らず、やりたいことをやりたいようにやってきたら、気づけば、色んなジャンルにまたがる音楽を16年つくり続けていたという(笑)。

ー 業界の中でも、珍しいですよね。

野崎 良太 かもしれない。でも、時代をさかのぼると、1960年代、70年代にはそういう壁がなくて、例えば、マイケル・ジャクソンの音楽を生み出したクインシー・ジョーンズは、もともと、クラシック、ジャズの素養がある人だったりするんですよ。

ー 彼はフランスでアカデミックな音楽を勉強したバックグラウンドがあると聞いたことがあります。

野崎 良太 そう。だから、彼のような例を考えると、みんなが目先の楽さに簡単に飛びつくようになってしまった今の時代に欠けているのは、クインシー・ジョーンズのような、柔軟さと収斂の積み重ねなんじゃないかなって。

ー なるほど!

野崎 良太 やっぱり、どんな職業でもそれなりの訓練が必要じゃないですか。

音楽においては、コンピューターの進化によって良くなった面も沢山あるんですけど、進化によってショートカットが可能になったことで重要な部分もショートカットされるようになってしまった。だから、僕はこの時代に省かれがちな重要な部分をきっちり見据えたうえで、最高到達地点を目指す、そういう音楽家になりたいと、日々頑張っています。

ー つまり、両方を知るからこそ、見えてくる世界があるわけですね。

野崎 良太 そうです。そして、隔たりのある2つの世界がぐしゃっと合体すれば、何でも混ぜ合わせる技術に長けた日本人らしい音楽が生まれるんじゃないかと思っているんですけどね。

16年間の進化がもたらしたターニングポイント。

ー では、Jazztronikの活動を通じて、野崎さんのなかでターニングポイントとなった作品というのは?

野崎 良太 今年出した2枚のアルバムは大きいですね。

まず、4月に出したアルバム「Cinematic」なんですが、この作品は架空の映画サウンドトラックをテーマに作ったものなんですけど、Jazztronikを最初に始めた時、やりたかった色んな音楽のなかに映画音楽も入っていて。

ただ、映画音楽は自分のなかで憧れが大きかったこともあるし、若い頃は自分の頭の中で鳴っている音楽を楽譜にして、ミュージシャンに再現してもらう技術や経験も足りなかった。

そして、なにより、自分がイメージしている音楽をそのまま録音すると、莫大な費用がかかってしまうということで、なかなか手を付けられなかったんですね。

ー 壮大な映画音楽をつくるとなると、例えば、管楽器、弦楽器奏者を揃えたり、関わる音楽家が増えれば、かかる費用も膨大になりますからね。

野崎 良太 でも、この16年で得た技術や経験、その間のテクノロジーの進化によって、懸案事項がクリアになったことで、Jazztronikがずっと手をつけていなかった最後のキーワードである映画音楽にようやくチャレンジ出来て。

「Cinematic」は過去作ったアルバム作品のなかでも一、二を争うぐらい気に入っています。まぁ、リリースした瞬間に何万枚も売れるような作品ではないんですけど、こういう作品は自分のライフワークとして、今後も続けていきたいと思っているんです。

ー そして、ターニングポイントとなったもう1枚の作品というのは?

野崎 良太 6月末に発表したばかりの「Vamos La Brasil」です。

自分が大きな影響を受けたブラジル音楽のカヴァーに取り組んだ作品なんですけど、カヴァー・アルバムをつくるのはこれが初めてで、その試みがものすごい新鮮だったんです。

さらには、そのアルバムがジャズの伝統を築き上げてきたブルーノートという素晴らしいレコード会社からリリース出来たこと。そして、この作品は日本とロンドン2都市でのレコーディングを意図して実践したアルバムでもあるんですね。

ー どんな意図が隠されているんですか?

野崎 良太 やっぱり世界的な傾向として、グローバル化が進行しつつある一方で、日本では洋楽のセールスが落ちていたり、海外に対する興味が薄れてきているとも言われているじゃないですか?

でも、海外にもいいミュージシャンってのはいっぱいいて。そういう時代に彼らともっと一緒につくっていけるようなシステムを構築したいと思っていて、アルバム「Vamos La Brasil」はその第一歩でもあったんです。

80年代リバイバルの服を着る勇気はない(笑)。

ー では、音楽とファッションについて聞かせてください。歴史上、音楽とファッションは常にリンクしてきたわけですが、幅広い音楽を表現してきた野崎さんのファッションに対するスタンスというのは?

野崎 良太 ファッションと音楽の関係を僕が語るのは難しいんですけど、例えば、ここのところ80年代の音楽が流行っていますけど、Jazztronikの初期に80年代の音楽の要素を試しに盛り込んでみたら、「格好悪いからやめて欲しい」と言われたことがあって。

要するに音楽とファッションはその時代に合うかどうかが重要なんですよね。そして、ファッションと音楽のリンクでいえば、80年代の音楽が好きだから、あるいは流行っているからといって、80年代リバイバルの服を着る勇気は、僕にはないんですね(笑)。そこは自分に似合うかどうかという判断もありますから、僕自身のことを言うと必ずしもファッションと音楽は連動しませんね。

音楽もそうですが、ファションも自分のカラーというのが大事ですからね。

ー 曲に合わせたビジュアルイメージは意識しますか?

野崎 良太 演奏する音楽の種類や場所によって、着る服は変えています。例えば、クラブだったら、Tシャツですし、夜、ゆったり聴いてもらいたい「Cinematic」のライヴではスーツだったり。チョイスは無数にありますから、音楽同様、ファッションも奥が深い世界ですよね。

音楽の未来は明るいと信じてる。

ー 近年、音楽業界にまつわるニュースは明るいものが出てこないですが、野崎さんは未来の音楽活動について、どのようなイメージをお持ちですか?

野崎 良太 確かに音楽業界のバブル期を知っている人には、地獄のような時代が来ると思うんですね。でも、そのバブル期を知らない僕にとって、音楽配信だったり、音楽を発表する色んな方法が生まれた今の時代は、長く続いた音楽産業のシステムがようやく変えられる時期なんじゃないかなと思っています。

同じような音楽が一方的に流れているんじゃなく、それぞれがチョイスした色んな音楽が街中に溢れる、そんな時代になったらいいなぁと。

ー そう、音楽を取り巻く状況は必ずしも暗くないですよね。

野崎 良太 だって、極論を言えば、お金がなかったら、どこかの会社に頼らず、自分でCDつくって、ライヴで売ればいいんですから。

僕は、キーボードとベース、ドラムの3人編成でクラブ・ミュージックを演奏する発展途上のプロジェクトをやっているんですけど、現段階でわざわざレコード会社を通じて発表するものではないので、「Jazztronika Sessions」という名前で自分たちの手による完全ハンドメイドCDをつくっているんですね。

ー 何か得るものはありましたか?

野崎 良太 そうやって、自分の手を動かすからこそできる発見も沢山あります。音楽を届けることを最終目的として、今後もどんどん新しいことに挑戦して、自分に合ったやり方を見つけていきたいと思っています。

Vol.24 瀬筒 雄太

Vol.22 池谷 裕二


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