「アーティストだ、というと、何を描くアーティストなの?と聞かれる。以前は、『世界を描いているんだ』と答えていたけれど、最近は『言語を描いている』と答えている」。
すっかり今では地価が高騰した、バウワリーとケンメア・ストリートに、マイケル・ズワックのスタジオ兼自宅がある。初老といってもいい年齢に差し掛かってきたマイケルが、今も、ここで暮らし、創作できるのは、「レント・コントロール」という、テナントを地価の高騰から守ることを目的にした法律のおかげだ。マイケルは、もう何十年もここに住んでいる。
誰もが認める才能を持っているのに、ほそぼそと創作を続けているだけのアーティストがいる、と共通の友人に紹介されたのはもうおそらく10年近く前だ。スタジオを訪ねると、抽象的で悲しげなランドスケープの作品の数々を見せてくれた。かつては、チェルシーの超有名ギャラリーでショーをやったこともある。「でもやつらが求めるスピードで、作品を作ることができなかった」。スタジオの片隅に、くだんのギャラリーから送り返されてきた作品が、当時のまま置かれていた。
ギャラリーと決別した後、メキシコやハイチのブードゥー文化に魅せられ、何年も中南米を旅してまわった。その頃、恋をしたハイチ人の女性との間に、子供が一人いる。ハイチに生まれた子供をアメリカに連れてくるのは容易なことではなかった。2009年にハイチで地震が起きたときに、単身ハイチに乗り込み、娘を抱えて国境を超えた。いきなり都会に連れてこられた娘は、自分が知らない言語が飛び交う教室で、紙に字とも絵ともつかないものを書きつけていた。今マイケルが作っているシリーズは、何も理解できなかった娘の落書きにインスピレーションを受けたものだ。だから「言語を描いている」ということになる。
マイケルは、ニューヨーク州北部のバッファローという街からやってきた。同じ頃、シンディ・シャーマンやロバート・ロンゴ、リチャード・プリンスがニューヨークにやってきて、ゆるやかなグループを結成した。2009年にはメトロポリタン美術館が、彼らのことを「ザ・ピクチャー・ジェネレーション」呼び、大型のグループ展を開催した。マイケルの作品もいくつか展示された。そのときのマイケルはとても誇らしげだったけれど、その展示が何かを変えることはなかった。
「ロウワー・イースト・サイド・ヒストリー・プロジェクト」という名の非営利団体が開催するウォーキング・ツアーで、観光客を案内したり、夏には友人のつてで大型コンサートでTシャツを売るというアルバイトをしながら、マイケルは生計を立てている。そしてときどき、コレクターが作品を買いにくる。
「この間、あるイベントに出席したら、『歴史学者のマイケル』と紹介された」と苦笑いする。「確かにロウワー・イースト・サイドの歴史については、相当詳しいけれど」。
最後にギャラリーと「別れて」からは、脚光を浴びることはずいぶん少なくなった。それでも創作を続けるのは、創ることをやめられないからだ。「人類の魂を触ることができたら、どんな感触がするだろうか、それを追求して、今まで作り続けてきた」。
「アートの世界を僕が嫌いなことは知っているだろう? 特に、その世界の住人たちを。でもこの年になって、他の手段で生計を立てることにも疲れてきた。でも、最近、自分の嫌いな世界に参加しないといけないことを自覚するようになった。それも自分のルールで戦いたい。可能かどうかわからないけれど」。
最後に、ニューヨークに暮らす理由を聞いた。「ガールフレンドを追いかけてきたから」。それも何十年も前の話だ。今はどうなの?と畳み掛けてみた。
「ここには、必要なものがすべてあった。特に刺激がね。今はどうなんだろう?わからない。でも僕は今もここにいる」