TRADITIONAL STYLE

Vol.04 野口健


Dec 12th, 2012

photo_shota matsumoto text_jun takahashi(rhino inc.)

25歳という若さで七大陸最高峰世界最年少登頂という偉業を果たした、アルピニストの野口健さんにインタビュー。登山を通じて、環境活動や社会貢献に積極的に取り組む野口さんの生き方とは。

勉強嫌いの落ちこぼれだった学生時代に出会った一冊。

ー野口さんが山登りに出会ったきっかけを教えてください。

野口健 小中高と、外交官だった父親の転勤の影響で、イギリスにある立教英国学院という日本の学校に通っていたのですが、勉強ができず、ずっと落ちこぼれだったんです。全寮制のエスカレーター式の学校だったので、通っていれば進学できたのですが、高校に仮進級できるようになった直後、校内で暴力沙汰を起こしてしまって、一ヶ月の停学を喰らったんです。そんな時に植村直己さんの著書『青春を山に賭けて』に出会い、落ちこぼれだった僕を山に向かわせたんです。

青春を山に賭けて 植村直己著

日本人初のエベレスト登頂、世界初五大陸最高峰登頂など、世界を冒険した植村直己氏の五大陸最高峰の登頂記。当時としては非常識かつ危険な冒険に挑戦する、氏の冒険人生が克明に綴られている。となりの写真は、山登りに目覚めた当時の若き野口さん。

ーそこから一気に目標ができたんですね。

野口健 はい。全エネルギーが登山に向けられました。本に出会った翌年の16歳に植村さんが五大陸最高峰の中で最初に登頂したモンブランに、その後、大人の登山隊に入り高山病でゲーゲー吐きながらも何とかキリマンジャロ登頂も果たしました。

ー家族は心配しなかったんですか?

野口健 僕が危険なところに行っていることを、親父はあまり解っていなかったようですね。ただ、登山の途中で仲間が死んでしまったことを伝えると、「そんな危険なことしているのか!」と驚いていました。親父は海外での生活が長かったので、どこか発想が欧米的というか、自己責任という考え方が強くあって。「お前が選んだ冒険という生き方に命を賭けてもいい。ただ人に迷惑をかけるな」と言われました。それと「変な死に方はするな」ともよく言っていましたね。

ー「変な死に方」って何ですか?

野口健 例えば天気予報が外れて、登山中悪天候になってしまうと、一つの登山隊全体が情緒不安定になることがあります。そんな時誰かが、一か八か行ってしまおう! とか言いだすと、集団心理で不可能と解っていても猛吹雪の中アタックをして、全滅してしまうことがあるんです。これが親父の言う「変な死に方」ですね。悪い死に方、というか。遭難という言葉は一つでも、遭難の仕方があるんです。

二度のエベレスト登頂失敗。

ー最初は危険が伴う登山が怖かったんじゃないですか?

野口健 怖くないんです。今の方が怖いですね。最初のころは登ることに必死で、怖さがわからなかったんです。ただ、今思うと一回目のエベレストの失敗は恐怖をコントロールできなかったことが理由かも知れません。エベレストの頂上を目指すのに、二ヶ月くらい山に入るのですが、途中ベースキャンプ(標高5300m)と呼ばれる、中継基地で休んでいくんです。一気に上がると高山病になってしまうので、体を低酸素に慣らすために、ジリジリとアップダウンを繰り返して登っていくのですが、これが我慢の連続なんです。それに標高7,000メートルになると、生物が全く無い真っ白で匂いがない、この世とは思えない風景なんです。また、2、3週間前に挨拶していた外人が、登っている途中に変わり果てた姿で再開したり。追い打ちをかけるように体も高山病や肺水腫でボロボロなので、精神的におかしくなってくるんですね。

怖いことに、キャンプ3(標高7300m)くらいまで登ると、山頂が近くに見えるポイントがあるんです。本来ならば1度下って、ベースキャンプに入ってからチャレンジするのですが、極限状態だった僕はそこで一種の興奮状態に陥って、一気に登ってしまったんです。急激な酸欠によって意識を落としてしまいました。幸運にも6時間後にシェルパ(ヒマラヤ登山のガイドをする、ネパールの少数民族のひとつ)に発見してもらいました。

エベレスト

ヒマラヤ山脈にある、世界最高峰の山。1953年に英国隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされた。現在の標高は8,848メートルとされている。

ーその失敗によって「怖さ」を知ったんですね。

野口健 そうですね。それまでもマッキンリーの単独登山で、深さ200メートルはありそうなクレパスに脚を滑らせたこともありましたが、意識を失ってリタイヤしたことはありませんでした。

ー当時、最年少の踏破に注目が集まっていたと思います。失敗によってマスコミなどに叩かれましたか?

野口健 ええ。そりゃもう。登る前の会見で「自信はありますか?」と聞かれて、本当は無いのに「あります」と答えてしまっていました。で、結果コテンパンにやられて日本に帰ってきて会見が開かれるのですが、もう何度も失敗、失敗、失敗と言われるんですよ。嫌気がさして「ごめんなさい。僕もうあきらめます」と言おうかと思っていたのですが、不思議と「みなさん言うように失敗でした。ただ、失敗によって自分の弱点が明確になったので、トレーニングして補い、来年もう一回行きます。何が何でも登ります」とこの口がペラペラしゃべっちゃいまして(笑)。それでも二回目も失敗しましたが。

ー恐怖を知ったからと言って、登頂できるとは限らないんですね。

野口健 はい。一回目は若さと勢いと運だけで登ろうとして失敗したので、二回目の時は緻密に戦略を立てて臨みました。スペイン人の相方と組んで、ジリジリと上り下りをやって、順調に最終キャンプに入れました。そして天候が落ち着いた夜にヘッドランプの光で山頂に向けて出発しました。午前2時頃ですかね、山頂まで残り300メートルの地点でさっきまで綺麗だった星が急に見えなくなったと思ったら、どす黒い雲が渦巻いてきて、猛吹雪になってしまったんです。そこで「行くか、戻るか」を決断する場面になり、悩みました。ベースキャンプに報道陣が待っていて、二回連続登頂しなかったら何て言われるかな、残り300メートルだから、這って行けば行けるか、と。結局諦めました。

ーある種、究極の選択ですね。どうやって諦めがついたのですか?

野口健 一時間ほど相方とシェルパと悩んでいたのですが、あちこちで凍傷が始まってきてしまっていよいよ決断しなければ危険になってきました。そんな時にふとポケットの中に、当時付き合っていた彼女が入れてくれたあるモノを思い出しました。それは香水の小瓶だったんです。

野口健の命を助けた香水

ー香水なんですね。食べ物とかではなく。

野口健 確かに。どういう意味かな? と思いつつ、とりあえず酸素マスクを外して、口の中に入れて溶かし、歯でこじ開けました。真っ暗闇の猛吹雪の中、くんくんと嗅いでみると、彼女が使っていた香水だったので、存在をすぐ近くに感じることができたんです。さらに、どこからか彼女の声で「もう帰ってきて」と聞こえてきて。香水が迷っていた僕の背中を「帰ろう」と、優しく押してくれたんですね。早速「下りよう」と相方に伝えたら、彼は行くといって聞きませんでした。最後は自分で決めるのが掟ですから「わかった。死ぬなよ」と30秒くらい短い会話をして、下りました。ベースキャンプまで戻ると、そこにいた報道陣は口には出さなかったけど、ガッカリしていましたね。

ーその時登る決意をした相方は、どうなったんですか?

野口健 残念なことに遭難して、奇跡的にレスキューされました。両目は失明して、手足の指は凍傷で真っ黒。とても変わり果てた姿で下りてきてしまいました。僕といえば、鏡に映った自分に向かって「おまえは大したものだ。おまえは一流の登山家だ。よく帰ってきたな」「ほんと?」「いいか。おまえは間違えてなかった。失敗じゃないんだから、胸を張って日本に帰れ」と一人で自分と会話していました。

ーまた帰国して、例の「失敗」会見があるんですね。

野口健 はい。一回目の失敗の時に大口を叩いてしまったので、いろいろなことを言われました。じっと聞きながらそれに反論せずに、あることを考えていました。「何をもって成功か、何をもって失敗か」と。これは人生のテーマなんだなと思ったんです。世間は山頂で国旗を掲げたら成功と言います。でも、それは表面的なことに過ぎないと思うんです。僕は一回目のエベレストで無理をして登って遭難し、二回目は自ら下りる決意をしました。それを世間は失敗と一言で片付けようとしますが、本当の成功か、本当の失敗かは、少し時間が経ってみなければ解らないと思うんです。

エベレストは10人行ったら3人しか登頂できないという統計があります。この3割しか登頂できないエベレストに「絶対」はないですよね。世間が考える成功のために「何が何でも登ります」と言うこと自体がおかしい。それまではエベレストを除く六大陸の最高峰は1度の挑戦で登頂できました。ただ、運が良かっただけで、「絶対登頂できる」という考え方は自然に対して奢りでもあるし、2度の失敗から、行ってみないとわからないということを身をもって経験して、もっと俯瞰に、長い期間をもって成功か失敗かを考えるべき、と感じたんです。それからは「何が何でも」という言葉を封印しました。

ー失敗によって発見があったのですね。

野口健 山に対しての考え方が普通になった、という感じです。相手が山ですから、登れるときは登れるし、登れないときはどうあろうと登れない。これって普通ですよね。

ーそして翌年、三度目でついに世間の言う「成功」があったのですが、感動しましたか?

野口健 よく聞かれるのですが、山頂にたどり着いて「やったぞ!」と思ったのは一瞬だけでした。天候も変わりやすいので、頭をすぐに「下山モード」に切り替えて。山は下山がもっとも危険なので、また恐怖との戦いに備えなければならないんです。そして下り始めたときに、一緒だった僕よりも2歳若い英国隊の登山家が、緊張の糸が切れたのか、急に暴れ出し、自分でザイルをほどいて谷底に飛び込んじゃいました。僕らもギリギリで戦っていたので、冷静にシェルパと「おれらは生きて帰ろうね」ということを、言葉ではなく手を握ることで確認しあい、下りました。

1999年5月13日9時30分、世界最高峰のエベレストに登頂した野口健さんの登山隊。登山を始めて10年目の快挙。

ーやはり、とても壮絶な世界なんですね。

野口健 ベースキャンプまで下りたとき、ネットが使えるので画面に「野口健、エベレスト制覇!」と、失敗の時と逆に「制覇」という字がいっぱい並んでいるんですよ。頂上付近でそれまで登っていたあの英国隊のメンバーが自ら、谷底に飛び込んでしまうようなエベレストを、人間なんかが制覇できるの? って違和感を覚えました。無理だよな、と。そんなことを感じた、三度目のエベレストでした。

さまざまな活動へ。

ー現在野口さんは様々な活動をされていますが、その原動力はどこから来るのでしょうか。

野口健 山登りをして見たり、感じた全てのことが、今行っている活動に結びついていると思っています。山頂に立つだけが山登りではなかった、ということですね。活動の一つに遺骨収集があります。かなり色々言われる活動なのですが、これをはじめたきっかけが、僕のじいちゃんなんです。彼は軍人で、晩年よく「幸せになればなるだけ苦しい」と言っていたんです。じいちゃんは士官として、インパール作戦という作戦に臨みました。その戦いでは日本軍はほぼ玉砕するのですが、本人の部下のほぼ8割が亡くなっているんです。捕虜になって命からがら帰ってきて、まだジャングルに遺骨が放置されたままの部下がいるのにかかわらず、彼は長生きしていた。孫にいっぱい囲まれて幸せだけど、部下の気持ちになって考えると、幸せを感じてはたして良いのか……ということです。

僕も2007年にエベレストの頂上から下り始めたとき、戦争ではありませんがある体験をしたんです。山頂で出会った、日本人の登山家がショック状態になって、痙攣して座り込んでしまったんです。そこでは標高が高くレスキューする手段がないので、「見捨てるか」「一緒に死ぬか」という選択肢しかありません。その方もベテランだったので、自分の状況をすぐに理解して「先に行け」と何度も何度も伝えてくるんです。僕はどうしようかと迷っていたら、それを見た彼は「すぐに追いつくからとりあえず先に言ってくれ、すぐに追いつくから」と最後に言い、すっと息を引き取ってしまいました。

すぐに落ちないようにロープで固定して、埋める力は僕に残っていないので、顔に少しだけ雪をかけ、遺品を少しとって、ごめんねと謝りました。後ろ髪を引かれる想いで下りながら、彼が痙攣で座り込んでしまい、自分の死を感じ、息絶えるまでの1時間ってどういう1時間なのだろうか、ということを考えました。孤独感もあるし、死に対する覚悟もあるはずだと。そして僕のように生きる覚悟を選ぶ人間との違いなど。その時に当時部下に捕虜になるのはよくない、玉砕しようと言っていたのに、捕虜になってしまい、生涯部下の死を背負って生きる覚悟を選んだじいちゃんの、あの言葉の意味が少し理解できたような気がしました。


野口さんの山の先輩でもあった、故・橋本龍太郎元首相が晩年贈ったピッケル。
事務所に大切に飾ってありました。

ー「生と死」がある、極端な状況の中でわかったんですね。

野口健 そうかも知れませんね。遺骨が今でもアジアや沖縄など、世界中にそのまま放置されていること、国家事業としての遺骨収集は70年代くらいに終わっていることも、おじいちゃんが語っていたので、これはおじいちゃんが僕に残した一つの宿題というか役割なのかな、と考え、遺骨収集ツアーとして、主に沖縄で活動しています。「戦争を美化しているのか」とかいろいろ言われますが、人それぞれ自分が正しいと考えることがあるので、これはしょうがないですね。

ーどんな方が参加しているんですか?

野口健 10代、20代、30代がほとんどです。最初は若い人なんか来るわけないと思っていたので、驚きました。それと、なぜか女の子が多いんですよね。ある高校生の女の子は、僕のホームページを見て、直感的に「この活動をしなきゃ」と思って応募してくれたんです。この活動も、もう8年目になりましたが、段々と参加者が増えて、広がってきています。他にもシェルパ基金や清掃登山などやっているのですが、自分が正しいと考えることを突っ走っていきたいと思います。

IWCのインヂュニア・オートマティック

野口さんが行っている、過酷な環境で遭難や事故に遭ったシェルパの遺児達を支援するために立ち上げた「シェルパ基金」。その活動に共感した時計メーカー「IWC」が、2008年に支援としてコラボレーションを行った日本限定200本のモデル。
問い合わせ:IWC 03-3288-6359

Vol.05 長嶋一茂

Vol.03 八木沢博幸


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