租界って何だろう?
2015年は戦後70年という節目の年である。それを機会にして、戦時中の租界で起こった、日本のファッションにかかわる、ある重要な出来事について考えてみることにしたい。
日本のファッションは、終戦後に欧米からもたらされたものが深く影響をおよぼしている、と想像している方がたくさんいらっしゃるであろう。しかし当時の歴史書や回顧録などを調べていくと、じつは戦時下の中国の租界で3人の日本人男性が体験したことがすごく重要であったことがわかる。
租界はアヘン戦争の代価として、英国が中国から永代に借り受けた上海の土地の一部を開港都市にしたことから始まる。誤解を恐れずに言えば、戦前の中国は、欧米や日本から見ると、無防備に食卓に投げ出された巨大でおいしいごちそうだったのである。列強国は中国を恫喝するようにして不平等な租界の権利を獲得する。またその利権に乗って商売をする人にとって、租界は必要不可欠な生活の場にもなっていた。
中国でありながら、租界内の行政や警察は外国人が管理。居留地には欧米と同じモダンなアールデコ様式のビルが並び、そこで売られる商品は欧米から直輸入された最新の製品にあふれていたという。
そんな中国の租界は上海や天津など10カ所ほどもあり、英国、イタリア、フランス、ドイツ、ロシア、日本などが、個々にあるいは共同で運営していた。
石津謙介・天津租界 1945
アイビーの元祖・石津謙介が天津の日本租界で商売を始めたのは、満州事変が深みへはまっていく1938年のことだった。28歳の石津は大川洋行という最新のファッションを扱う洋品問屋に勤務し、センスと語学を磨く。なにしろ外国租界を抱える天津は、当時の日本よりはるかに高い文化と、素晴らしい洋服類にあふれていたのである。
1941年12月に日米開戦。やがて戦局は悪化し1945年8月に終戦。敗戦時、石津は大川洋行をすでに閉店し、収容所で通訳として働きながら重要な出会いをする。
石津が親しくなったのは、ガタルカナル島から天津へ派遣されてきたオブライエン中尉という海兵隊員だった。オブライエンはプリストン大学出身のエリート。お洒落なふたりは互いを認め合い、オブライエンはアイビーリーグ校のスタイルを石津に伝授した。
それは、アイテムやコーディネートのノウハウなどでなく、アイビースピリットと呼ぶべきものだったという。たとえば、ツイードジャケットは祖父から受け継いだものを子供や孫にヘリテージして味わいを深めることだったり、英国のレジメンタル・ストライプタイは縞が左下に流れるが、アイビーのストライプタイはあえて右下流れの縞を用いるといったことなど。
「ケンスケ、俺は英国の末裔じゃない。新しい世界をつくる新しい人種なんだ」と、オブライエンは石津に誇り高く語ったという。
石津は帰国後VANを立ち上げる。この当時、欧米のファッション誌などでもアイビールックが取り上げられ、それを見た社員らはアイビーアイテムは知り得ても、その本質を知らなかった。しかし石津は天津でのオブライエンとの出会いによって、うわべのファッションでない本物のアイビースピリットに触れていたからこそ、優れた服づくりが出来たのである。
左が茂登山長市郎。
アルド・グッチともかなり親交が深かったようで、京都や奈良を案内したこともあったとか。
茂登山長市郎・天津租界 1941
物資の少ない昭和30年代、グッチ、エルメス、ロエベといったヨーロッパの一流ブランドを扱う洋品店が銀座のサンモトヤマだった。サンモトヤマには一流の映画女優たち、川端康成、今東光といった著名な作家、そして欧米の一流品を海外で入手していた富裕層などが通いつめ、一種の文化的なサロンのような雰囲気を醸し出していたという。
なにしろインディペンデントな小売店が、グッチとエルメスという並外れてプライドの高いラクジュアリーブランドと代理販売契約を結び、同一の店内に並べられていたということだけでも、この店の凄さがわかろうというものだ。
この店の創業者・茂登山長市郎も、じつは天津租界でインスパイアーを受けていた男のひとりだ。茂登山は1941年12月10日に日本陸軍に入隊。派遣された先が天津であった。
その天津租界のショウウインドーを見て彼は大ショックを受ける。そこには、イエーガーのニット、バーバリーのコート、ダンヒルの喫煙具などが輝いていた。日本橋のメリヤス問屋の長男で、美しいものが大好きな茂登山は『これだ! 戦争が終わって生きて帰れたら、絶対にこういう商売をするぞ』と決心した。
それからの茂登山は軍隊の休日になると、他の兵隊がピー屋(娼館)へ出かけるのを横目に、租界へ通い続け、商売の目を肥やした。
日本租界では、なんと石津の務める大川洋行でアクアスキュータムのコートを見せてもらった記憶があると、最近筆者に教えてくれた。
桃田有造・上海租界 1938
輸入ファッション業界では、『東のモトヤマ、西のモモタ』という業界の両雄を讃える言葉があったという。
モモタとは、コロネット商会を創業した桃田有造のこと。彼は戦後いち早く、欧州の一流ブランドと代理店契約を結び、日本に紹介した伝説的人物である。
名前は出せないが、英国のDや、パリのGなどの一流ブランドに、初めてメンズファッションをやらせたのは彼だという。また世界のケンゾーが若き日にジャングルジャップの名で、パリで初めてショウを開催し外国人バイヤーやマスコミの注目を集めたとき、経費を肩代わりしたパトロンは桃田なのである。
アルニスのオーダースーツに赤い靴下、最先端の衣装を着たマヌカンたちを引き連れ、文化人の集まるサンジェルマン通りのクラブ『シェ・キャステル』で豪快に遊び歩く桃田の姿は、日本人らしからぬダンディぶり。まさに豪傑なのである。
その桃田も1938年、わずか15歳で上海に渡り租界体験をしている。義兄の永弘洋行を手伝うためである。当時の上海は魔都と呼ばれ、最新のジャズと快楽と犯罪があふれる街だった。そんな都市で遊び好きの桃田がおとなしくしているはずはない。上海テーラーでビスポークスーツをオーダーし、ダンスを覚え、豪華なレストランやバーにたむろする。
このときの体験が、戦後輸入代理業コロネット商会を始めて欧州の商売人と渡り合うときに、どれだけ役に立ったかしれない。
天津、上海の租界は日本より10年以上も進んでいた。石津、茂登山、桃田は、あたかもタイムマシーンに乗ったかのように租界で未来を先取り。帰国後にそれを見事に開花させ、戦後の日本ファッションに計り知れない影響を遺したのである。
参考文献
宇田川悟『VANストリーズ』集英社新書
松本卓『格好よかった昭和』アスキー新書
上前淳一郎『舶来屋一代』文藝春秋
出石尚三『われ、ファッションブランドを愛す』NTT出版