去り行く夏へ感謝を込めて
\n5月の連休におろした新品のTシャツやスニーカーたちにやれが見え始めた頃、あれほど隆盛を誇った夏の輝きが、注意しないと気がつかないほどわずかに後退をしていることに気がつくことがある。
\nそれは都会のテニスコートに照りつける陽の強さのなかにだったり、潮風にまじる湿度の微妙な変化であったり、年ごとに異なるのだけれど、この夏はたしかに終わりつつあるのだ、と感じる瞬間が8月を過ぎたある日に突然と訪れるのだ。
\nこんな日の宵、筆者はひとり部屋にこもり音楽に耳を傾けることにしている。それは夏の間に生じたさまざまな出来事を反省し、新たな季節を心地よく迎えるためのけじめ。大袈裟にいえば去り行く夏を見送る儀式のようなものかもしれない。
\n夏の終わりにフィットするBGMは、マンハッタン・トランスファーの都会的なジャズコーラスやヴィニシウス・ジ・モラレスのボサノバなどいろいろと思いつくけれど、今夏はグレン・グールドを聴こうと思っている。
\nTUBEの斎藤久夫さんが教えてくれた、
美しき天才ピアノ弾き
トロントで生まれたピアノ弾き、グレン・グールドのことを知ったのはつい最近のことだ。南青山にあるTUBEのアトリエへ遊びに行ったとき、オーナー&ファッションディレクターである斎藤久夫さんが「古いドキュメンタリーだけど、おそらく日本で最後の上映になるらしいから吉祥寺の小さな映画館へ行ってきたんだ」と、教えてくれたのが『グレン・グールド/27歳の記憶』(1959年制作)であった。
\nあのダンディな斎藤さんが推すドキュメンタリー映画、しかもクラシック?\u3000いぶかしく思ったのだが、観て納得した。グレン・グールドの存在そのものが抜群に格好いいのである。
\n芥川龍之介を彷彿させる長髪に細面の顔立ち。20代の彼は、クラシック界の貴公子のような、輝くばかりの美青年だった。
\nグレン・グールドは1982年にわずか50歳の若さで永眠した。しかし彼の新しいファンは、死後30年以上を経た今でも増え続けているという。しかもそのファンは、純粋なクラシック派だけでなく、普段は古典をほとんど聞かないという人を含め、幅広いのである。
\nグールドの指が繊細に白い鍵盤を押し、音が映画館にあふれた瞬間、筆者も遅ればせながら、そのファンの末席に加えてもらおうと思ったものであった。
\nグレン・グールドの生い立ち
\nグレン・グールドは、1932年にカナダのトロントで生まれた。父親は毛皮商で成功し、恵まれた生活をしていたという。しかし彼らの暮らしていた村は、一般的なカナダの村とは少し異なっていた。
\n村で暮らす人々は、グールド一家を含め、裕福なイギリス系移民のピューリタン。独立心が強く、禁欲的で孤高なライフスタイルを好んでいたのである。小さな村には学校、図書館、教会、といった文化施設があり、素晴らしい自然(オンタリオ湖に面した長く心地よい砂浜など)にも恵まれていた。
\nこうした環境のなかで、グールドの先祖譲りの音楽的才能(3代前の親戚がピアノ演奏家、母がピアノ教師)は、すぐに開花した。
\n3歳でピアノに触れたグールドは、多くの子供がそうするように、鍵盤をいくつも同時に叩くようなことをしなかった。ひとつの鍵盤を指で押し、必ず音の響きが完全に消えるまで待つ。驚いたことに、指からピアノ線へ伝わり徐々に消えていく振動を確認するベテランの演奏家のような仕草をすでに身につけていたらしい。
\n14歳の頃にカナダの音楽界では天才少年として知られていた。そして1956年、ニューヨークのスタジオで録音したバッハ作曲『ゴルトベルグ変奏曲』のレコードが、グレン・グールドの名を世界的な伝説へ押し上げた。
\nクラシック界では、作曲家は自分の意図したことのすべてを音符と記号に託して譜面にしるす。演奏家は、その譜面を忠実に再現することが重要視される時代であった。
\nしかしグールドの『ゴルドベルグ変奏曲』は新鮮で独創的なものだった。彼は譜面にしるされた作曲家の意図を独自に拡大解釈。ときに作曲家自身でさえ気づかなかった曲の魅力を新たに引き出すことにチャレンジし、成功したのである。しかも『馬鹿テク』で。
\nバッハの曲は『グールド・ベルグ変奏曲』に進化したといっても過言ではない。
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\nグールドのスタイルにおける『守破離』とは?
\n日本の伝統芸能、能の開祖として知られる世阿弥は、芸を磨いていく段階として『守破離』(しゅはり)という言葉を編み出した。
\n『守』とは、芸の最初の段階で、まずは先達から受け継いできた伝統を忠実に守ること。『破』とは、さらに芸が熟達した段階で、伝統を破り、新しい自分の型を創造すること。そして芸の最終段階『離』は、あらゆるものから離れた、達人の境地を指すという。
\nグールドの演奏が幅広い人々の心を打つのは、クラシックという伝統を破り、ときに『離』の境地へ限りなく近づいていたからではないだろうか。
\n2011年に日本公開されたドキュメタリー映画『グレン・グールド/天才ピアニストの愛と孤独』のなかで、かっての恋人だった女性画家は「グールドの演奏がトランス状態に入ると、音が譜面から解き放たれて森羅万象と結びつき宇宙と一体化して踊りだすような感じがする」といったニュアンスのことを証言している。まさにそれが『離』なのである。
\nグールドが初めてニューヨークに録音で訪れた50年代の中盤、レコード会社の関係者は都会的で最新流行のトラッドスーツでキメていた。しかしトロントから出てきたグールドのスタイルは、森やビーチを散歩しながら音楽的な思索を熟成させていたときと変わらない格好。分厚いツイードコートにハンチングとマフラー、そして手を守るための手袋であった。
\nボヘミアンと呼べば聞こえはいいが、お洒落なニューヨーカーからすれば、かなりスラウチ(だらしない格好でうろつく人)に映ったらしい。
\nしかしその映像を今あらためて見直して観ると、彼の着こなしは、誰よりもトラッド的といえる『野暮で粋』な雰囲気を醸し出し、なかなか味わい深いのである。
\nグレン・グールドは服飾スタイルにおいても、すでに『離』の人であったのか!
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