家賃1年分を前払いしてN.Y.暮らし
ー 1975年にN.Y.へ移住されたきっかけを教えてください。
日野皓正 初めてN.Y.を訪れたのが1970年で、行ってみたらやっぱりいいな、と。それ以来、毎年アルバムをN.Y.で制作するようになるんだけど、ミュージシャンのクオリティの差に驚いたことも理由のひとつかな。前々からN.Y.のジャズミュージシャンが来日したときは東京で会っていて、「ヒノ、ヒノ」ってかわいがってもらっていたし。すでに暮らしていたジャズピアニストのプーさん(菊地雅章さん)から誘われたことも後押しになったよね。
ー 一家6人でN.Y.に踏み込んでいったんですね。
日野皓正 4人の子供も、もちろん俺も英語もしゃべれないのにね。 住む家が見つかるまでマンハッタンのマディソン・アヴェニューのホテルに泊まっていたんだけど、着いたその日に同宿していた植草甚一さんに偶然お会いして(注:植草甚一は昭和に活躍したエッセイスト、評論家。本、映画、ジャズを愛し希代の趣味人として知られる。)「日野さん、住むことにしたのか? 「はい」「いくらもってきたの? 」「200万です」って答えたら、「それじゃあ、1年ももたないなぁ」 って言われちゃってね。「そんなにN.Y.で暮らすにはお金がかかるんですかぁ?」なんて……(笑)。
ー それは植草さんの感覚かもしれませんが(笑)
日野皓正 子供たちの教育のためには治安のいい所にと思って、郊外のクイーンズ地区で1軒屋を借りました。1か月の家賃が500ドルっていうから、俺は5,000ドル払う代わりに1年分の家賃にしてもらうように交渉してね。成立したときは、「はぁー、これで1年はN.Y.に居られる」って思ったよ(笑)
ー N.Y.に着いてすぐに仕事が始まったそうですね。
日野皓正 俺がどれだけ吹けるかは、日本にいるときから知ってもらっていたからね。ホテルに仮住まいをしていたときからギル・エヴァンスのビッグバンドとかジャッキー・マクリーンのバンドの仕事が決まっていて。ちょうどウディ・ショウがジャッキーのバンドを辞めてトランペッターが空いたところに俺に声がかかったんだよ。
厳しい世界に来ちゃったんだなぁ
日野皓正 ジャッキーのバンドに俺が入ったのがわかっているのに、ジャズクラブの休憩時間に白人のトランペッターが来て吹き出したりするわけ。「うちはヒノがいるから」って断られるのに、わざわざ自分をアピールしに来たりする。ジャズの仕事って安いんですよ。ギル・エヴァンスのビッグバンドで、「ヴィレッジ・ヴァンガード」で1日3回のステージをやってもメンバーがもらえるのは当時で15ドル。「ああ、俺は厳しい世界に来ちゃったんだなぁ」と思いましたね。
ー それでも、ジャズミュージシャンはN.Y.にこだわります。
日野皓正 ジャイアンツ(偉大な演奏家)はたくさんいるからね。僕が最後にマンハッタンに家を構えていたのがアッパー・ウエストサイドの82丁目。マイルス・デイヴィスが77丁目、ロン・カーターが78丁目に住んでいたんだ。音楽だけでなく、美術だってN.Y.には最先端のアートがあるし、みんなここで切磋琢磨して自分を高めていくんだよ。
ー 日野さんもマイルスをはじめ、ジャイアンツたちから学んできたとか。
日野皓正 アメリカには偉大なミュージシャンは新人や若い人をかわいがる文化があるの。最初に音を聴いても「おまえの音は ここが悪い」なんて否定することは決して言わない。アート・ブレイキーに「You have a fire!」(おまえには燃えるものがある)って言われたときはうれしかったなぁ。ジャズ界のいい慣習は大事にしたいよね。俺も日本にいるときはスタジオを借りて若い連中と一緒に練習をしたりするんだよ。
自分を証明しようとするな
ー 話に登場したアート・ブレイキーですが、あるとき日野さんに「自分を証明するな」と言ったエピソードがありますね。
日野皓正 俺たちミュージシャンは自分の身体を使って天に言われたままの音を伝える、その役目しかない。でも人間だから、 いざステージに立つと「あいつよりも上手く演奏したい」 といったエゴがどうしたって出てきてしまう。音を聴けば、 その人の考えいることが全部わかっちゃうからね。アート・ブレイキー自身もそうやって、自分と闘いながら死んでいったんだと思う。だからこの言葉を俺にも残してくれたんだよね。
ー 9 歳からトランペットをはじめて、71歳の今もそこには葛藤がありますか?
日野皓正 悪い欲はもう無くなってきたかな。「このフレーズを練習してきたから今日は使ってやろう」なんて思ってしまったらもうダメ。人の演奏と合わなくなっちゃうでしょう? ジャズは共通の会話をみんなでしていくものだから。ステージに立つたびに「自然に出てくる音に任せればいい」とは思っているけど、実際のところはまだまだ……。
「一音」に命を懸けろ
ー 愛用されているトランペットがとても重くて驚きました。
日野皓正 昔はもっと重かったけど肩がイカレちゃって、これは少し軽くしたの。
ー マウスピースもずっしり! “重さ”にこだわりがあるんですね。
日野皓正 そう、僕の場合は人生を音に乗っけて「グワワワワーッ」と重い音が出るようにしたいわけ。楽器の軽さにこだわる人もいるし、その思い入れは自分の生き方なんだよ。
ー 日野さん特有の頬をふくらませる奏法はいつから始めたのですか?
日野皓正 思い出せないな(笑)、でも音色に対して自分の考えがはっきりしたときからだね。マイルスもブルー・ミッチェルもこの奏法だけど、口の中の容積が大きければ大きくなるほど、サブトーンになるわけ。その上で舌の位置やタンギングを変えていけば、それだけ違う音色が生まれるんです。
ー 自分だけの音を獲得していくためには時間がかかりますね。
日野皓正 音には奏でる人間のすべてが出てしまうから。サッチモ(ルイ・アームストロンクグ)みたいに音楽で万人を心から包んでしまう、愛をあげられる人になりたいじゃない。あの人にはかなわないよ。
だからこそ子供たちのブラスバンドに教える機会があると、「一音に命を張れよ、命を託せよ」と言葉をかけます。 若い子でもちゃんと反応が返ってくるのがうれしいよね。
いい眼をもっていれば似合う服は見つかる
ー 最後に、ふだんのファッションについてお聞かせください。
日野皓正 歳もとったし、全然気にならなくなってきたなぁ。スタイリストさんが用意してくれるものは信用していないから、 一緒に選ぶのは昔から変わらないね。今着ているジャケットは、たまたま店に入って見つけたの。若い子が好きな海外メーカーのものらしいね。
ー ボタンの糸や、エルボーパッチなどディテールが凝っていて日野さんによくお似合いです。
日野皓正 自分の眼さえもっていれば、自分にいちばん似合うものは見つかるんだ。昔、植草甚一さんに「日野さん、この帽子似合うと思わない? 」と聞かれたことがあって「いいですね」って褒めたら「これ渋谷で280円だったの」だって。そういうことだと思うよ。 俺も儲かっていれば洋服をオーダーするし、高いブランドのものを買うよ(笑)、でもジャズをやっていたら、そんなこととんでもない。やっぱり自分で歩いて探すことになるんだね。