赤レンガ造りの銀座
明治時代の銀座はロンドンをモチーフにしていた。中央通りには赤いレンガ建てのビルディングが並び、歩道にまでレンガを敷き詰めたハイカラな街並みだったという。車道には馬車に混じってたまにクルマが行き交い、市電も明治36年(1903年)に試運転を開始した。
明治27年(1894年)の日清戦争、明治37年(1904年)の日露戦争の勝利によって弾みのついた日本経済は、大正3年(1914年)に起きた第一次世界大戦によってさらにアゲアゲとなり、人々は豊かなライフスタイルを享受したといわれる。
好景気の様子は、『今日は帝劇、明日は三越』という、三越呉服店の広告コピーでうかがい知ることができる。当時の富裕層たちは、帝国劇場でお芝居を堪能した後に、三越でラグジュアリーなお買い物をすることが、最新のトレンド行動だったのだろう。
もっとも日本最初の本格的百貨店として知られる三越呉服店は、外観こそレンガ造りのビルディングだったが、土足禁止で、衣料品の需要は洋服でなく、着物がまだ圧倒的に多かったという。
銀座にモダン化の波が来る
大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が銀座を襲った。火災のなかを動きにくい和服で逃げ惑った人々の多くは、機能的な洋服の良さを実感したのである。大震災は、洋服の普及の転換になる出来事だった。
同時にマグニチュード7・9の揺れはハイカラな赤レンガ造りの銀座を一掃し、新しい風俗文化をもたらした。ハイカラからモダンへ、銀座は大きな変身を始めるのである。
この当時最新の建築様式はアールデコなどのモダンデザインであった。19世紀末にパリで爆発的なブームとなった有機的な曲線のアールヌーボーは、その後よりシンプルで直線的に構成されたアールデコへ進化を遂げる。その最新様式をいち早く高層のビルディングに取り入れたのが、急速に大都市へ変貌していったニューヨークだった。
銀座はいつの時代も、世界の最新の動向を素早く取り入れ、それを銀座なりのスタイルへ昇華してしまう街である。震災後の銀座に雨後のタケノコのように現れたカフェ、ダンスホールなどの風俗店はアールデコを装飾に取り入れ、BGMには最新のジャズを使った。いっぽう洗練したモダンの完成形として登場したのは資生堂パーラー。ビーフスチゥ、カットレツ、クルケット(※ビーフシチュー、カツレツ、クロケット)が名物となった。
『銀ブラ』というのも昭和初期に生まれた流行語だ。銀座にはドレス、ワンピース、スーツ、帽子、ステッキ、喫煙具、時計、ネクタイ、スポーツグッズ、靴、鞄など最新の商品が並んでいた。それらの商品をウィンドウショッピングしながら銀ブラする男女はモボ、モガ(モダンボーイ&ガールの略)と呼ばれた。
モボの格好は流行歌『洒落男』(訳詞 坂井透)で歌われているので紹介しておこう。
『俺は村中で一番 モボだと言われた男 うぬぼれのぼせて得意顔 東京は銀座へと来た そもそもその時のスタイル 青シャツに真っ赤なネクタイ 山高シャッポにロイド眼鏡 だぶだぶなセーラーのズボン』
いっぽうモガは、ローウエストのワンピースにボブヘアーというフラッパースタイル。映画『俺たちに明日はない』に登場するフェイ・ダナウェイみたいに格好よかった。
しかしこうしたモダンな銀座は、昭和12年(1937年)の日中戦争以降次第に影を潜め、第二次世界大戦、統制生活、東京大空襲、終戦という結果により消滅したのである。
男の銀座、女の銀座
銀座の中央通りを京橋から新橋の方向へ見て、左側を女の銀座、右側を男の銀座と、戦前は呼んでいたらしい。
たしかに現代でも、左側にはデパートが立ち並び、買い物目当てに歩く女性が多い気がする。いっぽう右側は、表通りを数歩入ればクラブ、バー、画廊、紳士洋品店が入った雑居ビルが並び、男の銀座という感じだ。
そんな男の銀座で、戦前から今も残る洋品店を挙げておくと、中央通りにはステッキのタカゲン、喫煙具の菊水、トラヤ帽子店、鞄のタニザワがある。またレンガ通りには大和屋シャツ店が残っている。
ニューヨーカーが新店舗を出した並木通りは、昔『並木座』という名画座があった通りだ。筆者はよく、晴海通りにあったイエナ書店で洋書を立ち読みし、それからテイジンメンズショップ、昔のブルックスブラザーズ、シップスの順でトラッドショップを巡り、並木通りのカメラ屋を冷やかした後に、並木座で名作の3本立てを堪能。それから三州屋とかニューキャッスルで定食や辛来飯などを食べて幸せな気分になったものだ。
ニューヨーカー銀座旗艦店の前には、たしか『ホルン』という登山用品店があった。銀座の紳士はトラッド好きも多いが、意外に山好きのロマンチック派も少なからず存在する。今は好日山荘しか残っていないけれど、ホルンの他に伊丹十三や山口瞳が通った『銀座チロル』という名スポーツ用品店もあった。
モダン建築が銀座を蘇らせた
戦争で焼け野原になった銀座だが、それでもいくつかの名建築は残った。GHQのマッカーサー将軍がいた第一生命ビル。チャーリー・チャップリンやジャン・コクトーが宿泊したことで知られる旧帝国ホテル。和光、黒澤商店、松屋は進駐軍のPX(※進駐軍兵士用の売店。米国の衣料・食料品が購入できた)になった。日比谷の東宝劇場はアーニー・パイル劇場と改名し、アメリカから著名なジャズミュージシャンが兵士の慰問に多数やってくる。この界隈は日比谷映画館や劇場が並び、三信ビルには芸能関係者の事務所もあったため、日本のブロードウェイと呼ばれたものだ。日本劇場も残ったが、不思議なことに摂取は免れた。というのは座席が消えていたからだ。戦中、日劇はすべての座席を取り外し、その空間を利用して風船爆弾の工場になっていたのである。
こうした建物は現在、和光や第一生命ビルを除きほとんどが取り壊されてしまった。しかしひとつ言えることは、1920から30年代につくられたマンハッタン調のモダンなデザインのビルが残ったからこそ、戦後の銀座は、街としての格が維持されたのである。
今も秋になると、東京国際フォーラムあたりから東京ジャズフェスティバルの演奏が銀座通りに流れてくることがある。そんなとき、古き良きニューヨークへ一瞬タイムスリップできる街、それが銀座だ。