自転車による田園スケッチの旅
草原が初夏の風に揺れている。草いきれから発する微細な水分はあたかも輝く命の粒のように駆けあがり、壮大な大気の流れとなって空へ吸い込まれていく。
こんな田園風景を見たとき、ある思いが頭のなかに蘇ってきた。それはいつかどこかの雑誌でやりたいなと思いながら、いまだに実現できていないファッションの企画だ。
日本を代表するダンディにしてイラスト界の巨匠穂積和夫さんと、ファッションイラストレーターの第一人者であり最近ではオチャメな風俗ルポの人気も高い綿谷寛画伯は師弟関係にあることはよく知られている。
筆者の企画は、この御二人を自転車に乗せてスケッチの旅へ誘おうというもの。穂積先生には水彩で、綿谷画伯にはペン画かリキテックスで英国カントリーの風景を思うさま描いて戴きたい。もちろんお洒落な二人だから、ファッションディレクターの青柳光則さんあたりが用意してくれるトラッドな旅のワードローブを完璧に着こなして写真におさまってくれるであろう。
こんな実現しそうもない企画を思いついたのは、約30年前に、スーツスタイルで乗れるスポーツ用自転車を東京のNサイクルへオーダーしたときだった。
ドロップハンドルのスポーツ自転車でギアは8段。車体の素材はクロモリ鋼で総重量は8kg以内。クラシックな革のサドルをつけ、色はブリティッシュグリーン。さらに、スーツで乗りまわしても違和感が出ないように軽い金属製の泥よけを前後の車輪につけて欲しい。
こうした注文を聞いたNサイクルの店主は、「こりゃ今どき珍しいスポルティーフだな。フランク・パターソンの絵でも参考にするか」と何やらふたつの謎の言葉をつぶやきつつ、快く、しかもリーズナブル価格で引き受けてくれた。
自転車の旅にふさわしい2車種
後で知ったのだが、スポルティーフとは自転車の車種を表す言葉であった。軽量でスピードの出るドロップハンドル型のスポーツ車に、日常使いもできるようにあえて泥よけをつけた自転車をスポルティーフと呼ぶのだそうである。
その用途は、ウィークデーが通勤用。週末は泥よけを外して、レースやサイクリングなどができる機能を持たせている。
スポーツ競技としてサイクリストの地位が確立している欧州では、とりわけこのような自転車を楽しむ人が多いらしい。
話は少し飛ぶが、ロンドンで取材したテーラーのティモシー・エヴェレスト氏はまさにこの手の自転車マニアであった。エコ意識の高いロンドンでは、今や自転車が大ブーム。ティモシー氏のようなかっ飛び中年サイクリストのことを指して『マモー族』という言葉まであるそうだ。
スポルティーフは日帰りか、せいぜい1泊程度のサイクリングに向く。しかし自転車には長距離&連泊可能な車種もある。それがランドナーだ。
ランドナーは、テントや寝袋などの重い荷物も積めるように、後輪の泥よけのうえに荷物置き用の丈夫な台が装着されている。フレームは頑強で、タイヤも太い。そのぶん総重量は重くなり、スピードは出ないが、もともと長旅をスローに楽しむ車種なのだから、これで充分。デザインはクラシックで、機能的かつ味わいの深い自転車である。
ターナーから続く英国・旅行画の伝統
英国の画壇には旅行画という伝統的なジャンルが確立されている。旅行画とは、旅の荷物に画材を忍ばせておき、行く先々の印象的な風景をスケッチすること。
旅に持っていく道具だから、画材はコンパクトな水彩セットが重宝された。また描かれる風景は、荒れた海へさす天からの一瞬の光を捕らえたような、いわば自然が気まぐれに見せる動的な美しさを描いた小品が多い。
そんな旅の水彩スケッチの達人は、日本でもよく知られたウィリアム・ターナーである。筆者はNサイクルの御主人が話していたフランク・パターソンという画家も、英国の水彩画系に属する人だと思い込んでいた。
しかしそれが勘違いだったと気づかされたのは、2013年に日本で発売されたフランク・パターソンの画集『サイクリング・ユートピア』(文遊社)を発見したときであった。
メリーレーンを疾走する
20世紀初頭のサイクリスト・スタイルに注目
フランク・パターソンは1871年に英国の港町ポーツマスで生まれ、画家を志してロンドンに出たが希望は適わず、広告スタジオで家具などのイラストを描く仕事に携わるようになる。
彼は当時流行の自転車にまたがり、週末はサイクリングをしながら田園風景をジロット303というペンで描くことを趣味としていた。そんなスケッチ画が、あるサイクリング専門雑誌の編集者に認められ、以後約60年間、優雅な英国式カントリーサイクリストの生態を克明なタッチで約2万枚以上も記録していくことになる。
ゆるやかにうねる小さな丘の続く英国の田園地帯を軽快な自転車にまたがり縫うように走り抜けるのは、サイクリストにとって至福の喜びである。それは、五感のすべてが自然と一体と化す、自転車乗りならではの密かな愉しみといえよう。
そんなメリーレーンライディングを満喫するサイクリストの着こなしスタイルを、嬉しいことにフランク・パターソンはお洒落に描きこんでいる。
ツイードジャケットにプラスフォーと呼ばれるたっぷりとしたニッカーボッカーズ。あるいは、英国地方独特の突然のストームに見舞われ、後部バッグに収納しておいたゴム引きのポンチョをかぶって疾走する、機能的で男らしいサイクリストの着こなし。
どれも格好いいが、なかでも筆者のお気に入りは、コットンフランネルの長袖シャツの袖をまくり上げ、木陰の下で横になってのんびりと空を見上げる男のスタイルだ。彼は旧式なプラスフォーでなく、ゆったりした厚手のチノクロス・ショーツをはき、ウールのロングホーズを足首まで下げて、足元は履きなれた革製のカントリーシューズ。そのなんともいえず味わい深い着こなしは、現代のユーティリティルックに通じるものがある。
いい忘れたが、フランク・パターソンのペン画は、自然の光と大気がそのまま描かれている。自然が一瞬だけ見せる美しさを克明に捕らえること。それはまさにウィリアム・ターナーと同じ美意識。
その意味において、画集『サイクリング・ユートピア』は英国伝統の旅行画の系譜を見事に継承したものと言えるであろう。